型の文化考察です。今回は三部構成となります。
武術・武道を学ぶという事は、基本的には「カタ」を学ぶという事に他なりません。
カタは一般的に「型」の字を用いられます。
「文化の型」という概念がありますが、「文化」とは集団によって構築され継承されていく有形無形の型そのものとも考えられます。
「日本は型文化である」と言われますが、文化そのものが型であるように、「型」を持つのは日本に限った事ではありません。
ボクシングでもコンビネーションを学びますが、これも一種の型と言えます。
バスケットボールでもバレーボールでもテニスでも、試合の中の場面を切り出して型として練習するのは当たり前の事で、特筆するような事では実はありません。
ただ型を中心に捉え、その型の大きな変化を嫌う傾向にあるのが日本文化の気質であるようです。
実用という面で考えれば、実地の運用で問題点、改善点が見出されたら随時型を変化させるのが自然な事です。
武術も時事、様々に工夫されてきたものの、根本的な型は遵守するという意識が高いという点では型文化の典型と言えるでしょう。
現代においては、日本刀を矩とした古流武術は最早その実用性という本義を果たす事がななり、殊更に型の保存は、「伝統の保存」という新たな武術の本義としての観点から重要となっています。
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型が日本文化の大特徴であるという考えは、昔から様々に論じられています。
現代までも、武家の文化、武士の文化、そして伝統武術が保存され継承されたという事実が、何よりのその証左だと言えるかもしれません。
西洋の剣術などは、銃による戦争体系の変化に伴い、相当早い時期に失われ、フェンシングにその足跡を残す程度とも言われております。
●カラーイラストいっぱい、1500年代に描かれた西洋剣術の指南書「Fechtbuch」
数々の写本に見られるように、ヨーロッパでも騎士の剣術は非常に発達し、一定の型が伝えられていたようですが、文化として継承はされず、今はこういった写本を手がかりに、復元されているようです。
日本の伝統武術に対する執着は、そのまま日本刀に対しての執着なのかもしれません。
日本人の「日本刀に対する執着」は第二次大戦の軍刀を見てもよくわかります。
第二次大戦中に欧米の国々でロングソードなど携えて戦場に向かえば相当奇異な目で見られたでしょう。
というか実在したらしいのですが…。
■ マッド・ジャック
余談ですがイギリス陸軍大尉、ジャック・チャーチルは第二次大戦にロングソードだけでなく、弓矢までも使ったそうです。
愛称はマッド・ジャック。
「士官たる者、帯剣せずして戦場に赴くべきではない」
という古き騎士道を信念としてロングソードを持って戦場で活躍しました。
1941年には戦闘開始時にロングボウを用いて敵の下士官を倒し、「第二次大戦中に弓で敵を殺傷した記録上唯一のイギリス軍人となった」そうです。
実際に訓練でロングソードを持って上陸する写真が現存しています。
写真の右端がそうです。
小さいので拡大してみましょう。
確かに持っています。
なんという古兵(ふるつわもの)でしょうか。
古兵というかタイムスリップしていた騎士というべきでしょうか。
戦場でバグパイプを奏で、部下を鼓舞してコマンド部隊(イギリス軍の先鋒特殊部隊)を率いて勇敢に戦い、敵の手榴弾で気絶し捕虜となりベルリンで尋問されるも、二度目の脱走で捕虜収容所から帰還し、再び復帰するというタフガイでした。
ただ周囲はマッド・ジャック(気狂いジャック)の呼び名から推察出来る通り、やはり奇異の目で見たという事でしょう。
死生の狭間で歌舞くというのは日本でも見られる男っぷりを示すものであり、並大抵の胆力で出来る事ではないのではないでしょうか。
■ 不思議の国ニッポン
英語学者で評論家、上智大学名誉教授渡部 昇一先生は著作の中で、757年に施行された養老律令が明治22年(1889年)大日本帝国憲法が発布・施行されるまでの1100年以上もの長きにわたって、法的には生きていた事を指摘しています。
恐らくは相当以前に死文化していたものと思われますが廃止はされませんでした。
日本に限らず、往古の法令は死文化したものが少なくないそうですが1100年以上、同一国家で死文化した法令が残るというのは珍しいという事のようです。
この事から渡部先生は、「よほど邪魔にならない限りは残そうとする」のが日本独特の文化ではないかと指摘しております。
そして「海外では『古典社会主義を学ぶなら日本に行け』と言われている」という事も指摘されております。
社会主義も日々、実際の社会主義国家運営の中で研究されており、社会主義国家でも古典は失われているにもかかわらず、なぜか日本だけは、古典の社会主義がそのまま残っているそうです。
鉄砲が普及したにもかかわらず、なぜか日本人は幕末まで、それでもぎりぎりまで刀にこだわり、もう懲りたかと思ったら、第二次大戦まで刀を携えていく。
これを日本文化の「型への拘泥」と位置づけて良いかは文化論の学者さんに判断をお任せしたい所ですが、非常にユニークで興味深い話です。
■ 型から勢法へ
「カタ」に拘泥する事には功罪があります。
実用面での要請がある場合、緩やかな変更も避け、触れずにいればある時に臨界点を越えて唐突に大破綻、カタストロフィが起きてしまいます。
明治維新などその典型かもしれません。
一方、カタを大事にするのは伝統文化の継承という意味では非常に強みになります。
ですがカタに拘泥して身動きができなくなってしまうという特徴もあります。
天心流兵法ではそのようにカタが鋳型の型となり、変化に対応できない事をタブーとしています。
そのため「勢法」という文字を当てて、「カタ」と読ませています。
これは「勢」は「動きの姿」、その「法」、つまり「法則・方法・概念」という程の意味です。
踏み込んで解読すると、「ある状況における最適な行動」という事になります。
ですから勢法は型にあらず、融通無碍(考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること)を内包した上での、身体的、技法的、戦術的、戦略的な定理・常法を学ぶために存在するのです。
それ故に「勢法(かた)」なのです。
■ 型軽視の論調
話を天心流から再び日本の型文化に戻ります。
日本は型文化の国ではありながら、同時に変化する場合は一気に、右へならえと総体的に激変するという特徴もあります。
江戸中期以降、竹刀と防具の発達から、安全に試合を行う事が容易になり、流儀の垣根が取り払われて「カタ」が軽視されるようになりました。
実際問題として、徳川幕府が安定し社会が安定化すると、武士が戦う機会は激減しました。
そういった流れの中で、カタが形骸化し、荒唐無稽なものとなったり、美しさを求めるようになった流儀もあったと言われています。
竹刀剣術は実際に打ち合う事が出来る事から、そういったカタの形骸化を揶揄し、華法剣法と蔑称しました。
軽い竹刀で当て合う中では、反りがあり重量があり、そして竹刀に比較すると短い日本刀の操法はあまり有効ではありません。
竹刀剣術からすると、そういった本身を想定した技法が竹刀剣術における実戦、つまり試合では役に立たないので、「実戦的ではない形骸化したもの」となるのは仕方のない事でした。
この考えは現代剣道にまで通じるものです。
そしてこの竹刀の導入は多くの古流に一斉に波及し多くの古流が竹刀稽古を導入しました。
幕府も竹刀剣術を奨励し、藩校で享受される剣術は撃剣、竹刀剣術を行うべしとしたそうです。
そういった流れに逆らったのは本当にごく一部の古流だけだったようです。
(三日月藩の藩校などではどうかわかりませんが、当伝系の天心流も竹刀稽古を採り入れませんでした)
柔術も同じように幕末には乱取りが広く行われるようになり、剣道・柔道は明治維新以降に武道として整理再編され、試合を主軸とした修練形態に変わり、カタの軽視は助長されて行きました。
江戸時代から平成まで、カタの稽古を主体する流儀から、カタはお飾り程度で試合、乱取りなど実戦攻防を重視する流儀に至るまで、その修業者の多くが一度はカタの存在意義に疑問を呈します。
「本当にこんなの使えるのか?」
「実戦でこの通りいくのか?」
「スパーリング、乱取り、試合をバンバンやった方が強くなるんじゃないか?」
「結局伝統芸能だから決まったパターンをただこなしているだけじゃないか」
当然の事ながら、実戦では約束通りには相手は動いてくれません。
スタンダードな攻防の形を識るには有効ですが、あまりに多種多様なカタは、実戦から乖離したもので、学ぶ意味が無いのではないか?
先に述べた通り、太平の江戸期には既に、カタが実戦から乖離し、複雑化し、或いは見た目に華美となった一種の遊芸と化したものを華法剣法と称され批判されるようになりましたが、実はそういった批判はもっと旧くからなされていました。
■ 宮本武蔵の指摘
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それは有名な宮本武蔵の「五輪書 風之巻」に見られます。
一 他流に太刀数多き事 (技の数が多い他流について)
太刀かず数多にして人に傳る事 (多くの技があると誇る流儀がある)
道をうり物にしたてゝ太刀数多くしりたると (武技を商売品のように扱い、「たくさんの技法を多く持つ流儀であり奥深いと」)
初心のものに深くおもはせんためなるべし (初心者に思わせる箔付けの目的である)
是兵法に嫌ふこゝろ也 (これは武藝において忌むべき事である)
其故ハ人をきる事色々有と思ふ所まよふ心也 (なぜなら戦い方に沢山の手段がると思えば迷いが生じてしまうからである)
このように技の多い事を実にはっきり非難しています。
戦闘中にどの技を使えばいいかな…などと思い悩む等、却って危ない話なのは間違いありません。
劇場版のドラえもんでは、毎回四次元ポケットから「あれでもないこれでもない」といろいろな道具を投げながら探すシーンがお決まりでありますがそれを彷彿とさせます。
中には空き缶や長靴も出てくるが、整理しろと毎回思う場面です。
劇場版ドラえもんのように、時間的に余裕があれば良いのですが、刀の勝負は瞬間で生死が分かつものです。
刹那に技を選ぶ余裕はありません。
(中略)
されども、場により、ことに随ひ、 (だが、その場その状況によって)
上脇などのつまりたる所などにてハ、 (上や横など邪魔なものがあったり狭かったり)
太刀のつかへざるやうに持道なれバ、 (太刀を振るのに差し支えがないように持つのが道理であるから)
五方とて、五つの数ハ有べきもの也 (「五方」といって、五種類はあるべきである)
実際、五輪書には五方、つまり五本の形が記されております。
其れ以外は本来の二天一流にはなかったという事のようです。
ですがやはりちょっと少なすぎたようで、その後弟子が型を増やして、現在はもっと多数あるようです。
夫より外に、とりつけて、 (それ以外に型をたくさん作って)
手をねぢ、身をひねりて、 (手をねじって、身をひねって)
飛、ひらき、人をきる事、實の道にあらず (飛んで、身を開いて人を切るようなものは、実用実戦の剣術ではない)
人をきるに、 (人を切る時に)
ねぢてきられず、ひねりてきられず、 手をねじっては切れない、身をひねっても切れない)
飛てきられず、ひらいてきられず、 (飛んでも切れなければ、ひらいても切れない)
かつて役に立ざる事也 (そういうのは実戦ではすべて役に立た試しがない)
我兵法におゐてハ、身なりも心も直にして、 (二天一流においては姿勢も心も真っ直ぐにする)
敵をひずませ、ゆがませて、 (敵の身をひずませてゆがませて)
敵の心のねぢひねる所を勝事、肝心也 (敵の心のねじれひねった所を打って勝つ事が肝心なのである)
天心流は飛んだり跳ねたり、ひねったりねじったり、開いたりと、何でも行う流儀なのですが、天心流バッシングのような内容です。
こういったシンプル・イズ・ベストという考え方は、江戸時代、無住心剣術の登場に象徴されます。
■ 無住心剣術
無住心剣術流祖、針ヶ谷 夕雲(はりがや せきうん)は生年不詳ですが、1669年(寛文9年)に没した剣術家です。
真新陰流の小笠原長治(源信斎)に学んだ後、どうやら落馬によって左腕の自由を失ったとされます。
その辺りは古武術研究家 甲野善紀先生の著作に詳しいです。
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その後開眼し無住心剣術を創始しましたが、この流儀のユニークな所は、「ただ太刀を眉間まで引き上げて落とす」だけしかしないという所です。
そんなアホなと思いますが、これ以外は認めない流儀だったようです。
有名なエピソードに相抜け(あいぬけ)があります。
これはただ振り上げ下ろせば勝つ、無住心剣術を究めた者同士では絶対に勝ち負けがつかないという、流儀の思想とも言えるものです。
故に互いに動けず終わる。
直伝はこれによってなされるというのです。
そして事実、二代目 小田切 一雲(おだぎり いちうん)は寛文2年(1662)印可を受けておりますが、この際、師の夕雲と勝負し、互いに打てず、相抜けとなったのです。
ところが一雲は三代目、真里谷 円四郎(まりや えんしろう)との試合において相抜けとならず撃たれてしまうのです。
なんだそりゃという話で、相抜けが成立したのは初代と二代の間だけだったようです。
また、「ただ太刀を振り上げて落とす」という教えには限界があったのでしょうか、結局、その後に型が生じたようです。
この相抜けの成功例のみが大々的に喧伝され、「剣の理が極まった者同士が立ち会わば、互いに撃たず、静かに礼をして引き下がる。これが武の平和の道であり、平法である」というような美談理想図が描かれています。
核抑止みたいな話です。
ちなみにその後も伝系は残ったようですが、現在は失伝しています。
■ 鐘の位
確かにたくさん技があっても「言うは易し行うは難し」であり、その都度都度に技を組み替えるなどどう簡単な事ではありません。
ですがならばと減らせばいいわけでもないというのが二天一流や無住心剣術の逸話から分かります。
ですから、技はよくよく見極めて増やさなければ、実際にはまったく使えないような、荒唐無稽な技法が増えてしまい、意味のない修業に時間を費やす事にもなりかねません。
逆にシンプル志向も行き過ぎれば、動きが限定されすぎて、変化に応じるまで熟達するのが難しくなります。
修業の果て、熟達の末にはシンプルな技で勝つという理想も体現できるのでしょうが、それを修業者に求めるのは難しい事なのではないでしょうか。
もっとも古流武術の場合は、わざわざ技を減らしたり増やしたりする必要もありません。
少なくとも天心流においては、我々現代人が過去の教えを覆し、或いは変更し、或いは付け足す事を是としておりません。
応用変化は無限ですが、伝承として学び伝えるのは師伝の教え以外にないのです。
ただ自流の教えに拘泥しますと、思わぬ罠に嵌る事もありますから、視野は広く、技は柔軟である事が理想です。
そういう意味では「天心流兵法に存在しない技は無い」という気構えがあります。
そんな事はもちろんありえず、あくまでも気構えの話です。
例えば「相鐘の位」(あいがねのくらい)教えがあります。
天心流では構えの事を「位(くらい)」と称しておりますが、敵の構えが珍しものであった場合、鐘の音が身に響くように、その構えを吾も写すという教えです。
これは様々な教えを含む事ですので、詳細は書きませんが、識らないでは済まされない軍場の現実を教えるものです。
(そもそもこれは自ら意義を学ぶべきものであり、あまり詳説すべきものでもありませんが)
構えに限らず、技法でも同様です。
識らなければ陥れられる危険性がある。
もちろんまったく無意味な技法であれば、それは圏外と言っても良いが、有効な技法であれば、識って損はない。
流儀は大事ですし、流儀の稽古は流儀の技法を基本的に行うものであり流儀を通して強くなるものです。
ですがもし栄養不足を感じるのであれば各々に工夫し、学び補うもの可能であって、流儀以外に触れてはいけないという事ではありません。
■ まさかの脅威
天心流には多彩な技法があります。
その理由の一つが上記に軽く示したものです。
様々な技法を識れば、対策が判りますが、識らなければ対応が非常に難しいものです。
言ってみれば、札の種類を知らないでカードゲームを行うようなものです。
孫子の兵法(謀攻)に以下の有名な言葉があります。
知彼知己者、百戰不殆、不知彼而知己、一勝一負、不知彼不知己、毎戰必殆
(彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し)
敵を識るという事は、それこそ存分に識らなければなりません。
敵を識るというのはどういう事でしょう?
敵、ここで言う敵はもちろん具体的な誰彼という場合もありますが、もうひとつは想定され得る未だ視えざる敵です。
剣術においては、いつか相対した誰かの用いる、「有効な手段」を識る事が大事なのです。
奇策、奇手などは強者には通用しないというのは一面における事実ですが、殺し合いという制限が少ない状況下では、採れる手立てが無数にあるのもまた事実なのです。
天心流口伝に曰く、恐ろしいのは「まさか」なのです。
天心流では繰り返し「まさかの恐怖」を説いておりますし、それを技法を通して伝えています。
現代程に手の内は開示されていない時代の技法です。
流儀内においても、許されるまで見ることもかなわなかったのが当然な時代でした。
(現在もそういった伝授体系を墨守する流儀も存在するようですが)
無数の技法を学ぶと言うことは、存在識り、効果を識り、対策を識る事につながる。
ただし、そこまで出来るのは、腕前はもちろんの事、その意義を理解し、自らそこまで練り上げられる者だけです。
「気づき」がなければ何も手に入らず、逆にその真の意図を秘匿する事が出来ます。
それこそ他流から、「あそこは技が多い事を自慢しているが、役にも立たないで金儲けや自慢目的の使えない流儀だ」などとコケにされるのは油断を誘う奇策そのものと言えます。
流儀によっては、「本当の形を門人にも秘匿し、一定の伝位に至ってはじめて開示される」という事もあるようです。
風姿花伝の「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という言葉がありますが、この伝授は世阿弥の家伝とする極意、秘中の秘とは、「隠している事すら気取られぬようにせよ」という事です。
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もう秘匿に秘匿を重ねる時代ではありませんし、天心流も往時は秘太刀とされる技法を演武などで多数披露させて頂いておりますが、なんでも開示すれば良いというものではありません。
※続きます