弟子が育たない

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指導の悩みとしてあるあるなのが、「弟子が育たない」という話です。
もちろん現代の限られた稽古時間では、成長というのは簡単なことではありません。
昔とある方が、「もういくら指導しても弟子がまったく上達しないから、教えるのバカバカしくなって教えるのを辞めた」と仰っていました。
これは少々極端な話かと思いますが、確かに私自身も指導者として日々「どうしたらもっと皆が上達するか」と悩み、考え続けています。

なぜこの話をしているのかというと、先日のDVD撮影中にそうした話題になったからです。
その時に「うちではまあ順調に上達しています」とお話しました。

もちろんわがままを言ったらキリがありませんが、しかし少なくとも新型コロナのパンデミックという大きな障害を経験したことを考えれば、好ましい状況だと思っています。

弟子が育たないというのは、どこの流儀でも道場でも、多かれ少なかれ抱えている問題、というよりそもそもの課題は通常、弟子を育てることにあるため、育たないというより、いかに育てるかは恒常的課題です。
そしてそれは常に社会的環境、流儀、道場の環境変化、個々人の環境変化があり、絶対の成功法則は存在しません。

もちろん、教えとして不変の伝統を継承しますが、伝統の保存と直接関係性がない場合は、状況に応じて適応していく必要があります。

しかし、弟子が育たないという話に関しては、実はもうちょっと現実的側面があるのではないかと思います。
久しぶりに会うと、若い人なら身長が伸びていたり、声変わりしていたり、顔つきも変わっていたりします。
太ったり、痩せたり、髪型が変わってたり服装の好みが変わっていたりすることもあります。
また年齢と共に、歳を重ねたなと感じることもままあります。

ですが、毎日のように顔を合わせていると、日々のわずかな変化は見過ごしがちです。
よくある夫婦や恋人の話で、髪を切ったのに気づかないという笑い話とも、洒落にならない話もよくあります。

つまり成長していても中々その変化に気づきにくいという側面があったりします。
海外の門人でも、動画などで頻繁にチェックしますから、やはり細かな成長には気づきにくいもので、なおさら稽古場で顔を突き合わせて指導しているとなおさらです。

そして基本的に無意識的に、弟子に求めるレベルも日々上がっています。
個々人としては「昨日まで出来なかったことが今日は出来る」という成長を遂げていても、師匠は「今日出来ないことを明日出来るようにしなければならない」という次の成長を既に見ていることが多いのです。
なぜなら自分はそれらすべての過程を経て、今のレベルに達しているわけで、「その道は私がすでに◯◯年前に取った道だ!!」となるわけです。
しかしそんなすぐに上達するわけがありません。
「男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」という言葉がありますが、門人は毎日顔を見ていたとしても刮目しなければその成長には気付けないと言えます。

なのである程度距離を取って客観視すると、「すごいやん!上達してるやん!」と気付かされることがままあります。

もし本当に上達出来ていないとすると、指導する側に問題があるか、弟子が稽古をきちんと出来ない状況にあるかということになります。
師匠は指導法や稽古場での稽古環境を整えることは出来ますが、普通は弟子の生活環境に干渉しません。(昔はしょっちゅうしたりしますが)
弟子が情熱を失わないように働きかけをするくらいしか、師匠が出来ることはありません。

私は2012年に流儀を継承し、12年が経ちます。
しかし継承後も自身の修行はまったく終わっていませんし、弟子以上に修練しなければなりません。
同様に、指導に関しても、まったくもって同じように自らの修行と思って、私自身が変わっていかなければなりません。

十年後に、「あの頃の先生の指導は本当に酷かった」と言われるようであれば、それは十年の修行の成果があったとはじめて言えるのでしょう。

 

鍬海政雲




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