ちょいちょい、目立っている天心流は批判の的になります。
そして時折、そうしたコメントで散見するのが「無名の達人」についてです。
かいつまんで説明すると、曰く「本当の達人は動画など出さないし、無名で知る人ぞ知る存在であって、表には出ない。しかし俺は知っている」そうです。
ですが正直、私たちにとって、そうした無名の達人の実在性や、その人がどれほどの達人かどうかというのはどうでもよい話なのです。
そもそも達人の明確な定義などというものは存在しませんから、論じるだけ無意味です。
私達にとって大切なのは言うまでもなく、ひたすら天心流の技法を追求し、その本来求める強さを求めて稽古に励むだけです。
これがこそが流儀の保存と継承という第一義に直結する唯一にして最大の手段です。
現実問題比べようのない他流と背比べをする事には興味がないというか、そのような余裕はありません。
天心先生のメチャクチャな指導をものにして、膨大な教えをきちんと整理し、これを多くの門人にとって出来るだけ学びやすい形で伝授する義務があります。
これは容易なことではありませんが、それだけの価値があるものです。
世の中にはたくさんすごい人はいるのは当然のことです。
世界は広いのです。
それぞれに研鑽を重ねているのですから、私達の知る由もないような摩訶不思議な術を使う人もいるでしょうし、私達が敵わないような物凄い強い人もいるのでしょう。
中国古典の菜根譚(16世紀の成立)に以下の言葉があります。
真廉無廉名 立名者 正所以為貧
大巧無巧術 用術者 乃所以為拙
真に廉(潔白)な人は、そうした評価が目立たない。
名を立てるのは、正に貪欲だからこそである。
大いに巧みな者は巧みな術を見せない。
術を用いる者は、乃ち拙さの所以となる。
本当の実力者は世に出ないとはよく聞く話です。
では世の中に出る人は劣るのかと言うのも、そう単純に優劣のつけられるものではないと思いますが、しかし天心流がまったく盤石で、ひたすらに私(鍬海政雲)が己の修業専一に過ごせたなら、もっと上達出来るはずだというのはもっともな考え方です。
そして未だ修業半ばにも至らぬ若輩者(といっても今年で46歳なので、結構大人でした)に過ぎず、生涯研鑽に励まなければならない未熟者であるのは、否定しようのない事実です。
しかし世に出ていない「真の実力者」「真の達人」という方々の存在を仄めかされても、どうにもならないという現実もあります。
「究極に可愛いけど活動が一切に知られていない完全に無名のアイドル」というのは、応援しようがありません。
いかに優れた達人であっても、学べないとどうにもならないです。
確かに、わずかな情報を頼りにして、無名の師を探すというのは、古来より実際にあった話です。
天心流も一昔前まで同じでした。
天心先生は公には弟子を取っていませんでした。
現在も流儀で指導されている現役最古参の武井先生の入門後(1998年あたり)、7年ぶりくらいに正式に弟子入りを許されたのが今の第十一世である井手師家ですが、それも偶然(知人と名字が似ていて電話口で勘違いして見学を許可した)があって邂逅し、かつ入門を許されるまでに一年も粘っての事でした。
そうした入門に至るまでの道程(みちのり)も一つの修業というのは、古武術に限らず、様々な芸道の一つの有り様であると言えます。
ですが身分制度が崩壊、廃刀令を経て西洋化し、高度な科学文明を満喫する現代社会において、無名のままで稽古環境を整えたり、次代を担う適格者を得て、また多くの志ある人々で伝統を支え合っていくのはとても難しい事です。
少なくとも天心流では不可能だと判断しています。
人生の貴重な時間を天心流を誹謗中傷に割いている奇特な方々を見ていると、そんな暇があるなら稽古すれば良いのに…と毎回思ってしまいますが、同時に私自身も天心流の広報より自身の稽古と門人の指導を最優先にしたい…という強い欲求を覚えます。
広報について素人なりにあれこれ考えて工夫するのも、充実した楽しいひと時です。
しかし修業や指導に専念出来ていないという事への不満は禁じえません。
それは私個人のエゴです。
同時に、天心流を貴重な伝統として次代に伝えたいという想いもまた、私個人のエゴに過ぎません。
しかしその存在が多くの人々の人生に少しでも役立つ部分があるのであれば、それもまた修業の途の一つではないかと考えてします。
どちらが良い悪いという事ではなく、どの道を選ぶかという選択です。
私にとっては「流儀を途絶させない」という信念による必然です。
まあ菜根譚を読み返していて、ふと思った事を書き留めてみました。
とても味わい深く、学びの深い書なので是非一度お読みください。