型の文化~『型』を信じ、かつ『型のみ』を信じない~

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型の文化考察です。今回は三部構成となります。

型の文化~技法の多い事について~

型の文化~一目羅不能得鳥得鳥羅者是一目~

型の文化~『型』を信じ、かつ『型のみ』を信じない~

 

下記は前段です。

型の文化~技法の多い事について~

型の文化~一目羅不能得鳥得鳥羅者是一目~


多彩な勢法(型)には、周囲の環境、怪我、装備…様々な状況にオールラウンドに対処する上で、最低限の経験を積み、技法を修得するという意味もあります。
経年修業した武術家・武道家でも、「そういう技はない」「そういう稽古はしていないので出来ない」という人が意外と多いものです。
「識らないから練習するから待って下さい」「いきなりだったのでうまく出来なかったのでもう一度お願いします」という言い分が通じるのでしたら良いのですが、やりなおしのきかない場面を想定して稽古するのが武術です。

天心流兵法が新陰流より出た流儀でありながら、剣術だけではなく多彩な抜刀術を含むのはそういった理由です。
一本抜から変形抜まで百八ヶ条存在するとされております。

坐しては大刀を置き刀とし、小刀のみ帯び、立っては大小二本指を常態とします。
古式の胡坐(こざ=あぐら)では大小を帯び、また太刀を佩いたまま坐する佩坐法としても技法を伝えております。
このような武士の装いを墨守するのは、古流武術では実は珍しい事なのですが、往時はいちいちそこまで気にしなかったというのが一般的だったのではないでしょうか。
一般に伝統の居合流派は大刀のみ一本指で稽古されますが、武士ならば稽古を終えれば二本指の常態に戻りますから、現代の稽古、演武でのみ刀を帯びる時代と異なって、「一本指は浪人だ!」等の批判は本来的外れな事なのだと思います。

ただ天心流におきましては代々師家が、稽古においても常態と同じ装いと定め、それに拘っております。
稽古の装いと普段の装いに差がありますれば、咄嗟の時に不覚を取る危険性も増します。
普段は脇指を帯びずに抜刀しているとして、咄嗟の場合に脇指をわざわざ外してから応じる余裕が無い事もあるわけです。
必ずしも状況は自分の都合で起こせるわけではありません。

ですから薙刀術、槍術、鎖鎌術などの稽古も大小を帯びますし、また柔術も坐法では脇指を帯びるのが原則です。

天心流を学びまして、そういった設計思想に大変感心致しましたが、逆に、他にこういった考えを持った古流は存在しないのかと深く疑問も生じる所でもありました。
ですが当流と致しまして往時の装いを墨守する事を矜持として誇る気持ちは、伝統保存という観点からも大事と考えておりますものの、それを持ちまして総ての流儀がそのようにするべきである等とは考えておりません。
前述のように、武士が稽古で一本指になったからなんだという事です。

それでは寝ている時も武士は二本指なのでしょうか?
そんな事は当然ありません。
天心流は往時と同様に時宜に応じて大刀を外し、また小刀を外します。
同じように寝る時は無腰です。
流儀の設計思想により稽古は一本指とするのですから、それはそうすべきものであり、的はずれな批判があるから二本指にする…というのは、代々師範と伝承に対する不義ともなりかねないのではないかと思います。

当流は当流におけます設計思想によって、装いを守るように言い伝えられて来ました。
同じように一本指で伝えられてきたのには、相応に流儀の設計思想があり、そのあるべき姿として存するものなのではないでしょうか。

さて話が逸れましたが、天心流に技法が多い理由には、時宜に応じた技法を学び、シチュエーションに慣れておくという危機管理の思想があります。

相手を油断させる卑怯な技法もありますが当然使うべき場面は限られてきます。
ですが、逆にいつでも必ず使える、完全無欠な技法等というのはまず存在しないものです。

咄嗟の時に必ずしも型通り…というわけにはいかないものです。
如何様にも崩して応じる、また場合によっては抜かず応じる事もありますし、戦わずに場を収める事もあります。
これが応用変化となるのですが、それにはまず理想形を身につける事が寛容です。
ですが同じ技ばかりでは、動きが制約されていて、自由自在とは中々いきません。
ですから天心流では様々なパターンを想定し、どんな時にでも応じられるように修業するのです。

そして武士の習い、武士の想定する実戦は剣だけではありませんから、長物、つまり素槍、十文字鑓、薙刀、そして鎖鎌などの変則武器、無手における柔も兼ね備えているのです。

■ 技法の性質と分類

これは特に抜刀術において顕著なのですが、対峙してすでに戦闘状態にある場合の技法もあれば、咄嗟に応じるような技法もあります。
そして急襲する技法もあります。
大別すると次のように分類出来ます。
(※名称は天心流が定めたものではなく、私が便宜上、それぞれの性質から名称を付けて分類したものです)

・対峙剣
互いに戦闘状態にある場合。
剣術は基本この技法になる。

・護身法(保躰法)
咄嗟に襲われた場合に応じるものである。

・討ち果たし
自ら攻撃を行う。上意討など。

この三種を軸として技法は編まれていると考えられます。
ただあまり明示して分類されていないので、混乱が生じやすいものです。

いずれか一種類だけでは、武士の人生の中での総てのケースに対応出来ません。
もちろん太平の社会では、そもそも刀を用いる機会が無いまま、一生を終える侍のほうが多かったと言われておりますが、備えは必要なのです。
「寝て」「起きて」「坐して」「立って」「歩み」「走る」
そういった状態で起こる各種ケースに技法を編み出すために、数が増え、また想定への理解が難しくなります。
ですが稽古の経験は実戦で必ず役立つものなのです。

稽古が無意味であるのでしたら、避難訓練などもまったく無意味という事になります。
そうではないのです。
訓練通りにはいかないものの、訓練の理が正しければ、必ず意義をもって何かしら発揮されるものがあるものなのではないでしょうか。

現代において刀を振り回すなど、荒唐無稽で時代離れした話でしかありませんが、当時は真面目な問題だったのです。
これを代離れを理由に破棄するのは容易な事ですが、そのような仕分けや変容を行うべきではありません。
武士の生活を実体験として知らない現代人が、どう仕分けても間違いになるはずなのです。

ですから天心流では余す事なく総てを伝承する事を目指しております。
そうでなければ、石井先師がわざわざ「もう時代が違うけど」と言いながらも、その総てを伝えた意志を裏切る事になります。
相伝は総伝してこそ相伝なのです。
絵画のキャンパスの一部だけ切り取って、「ここは現代でも通じる所だ、現代でも多くの人が気に入るところだから渡すよ」などと言う事は通じませんし、そのような資格は我々にはありません。

もちろん、往時の技法を現代の厳しい条件の中で相伝するのは並大抵の苦労ではありません。
ですが多くの流儀が時代の趨勢の中で途絶えてきた中で、天心流は幸運にもかろうじて現代に細い糸を紡いで参りました。
時代の荒波を乗り越えここまで伝わりましたものを、我々の世代で途絶してしまうのは、とてもではありませんが受け入れがたい事です。

■ 技法が少ない事の優位性と天心流の多重構造

また話が逸れました。

さてこれまで見てきましたが、技法が多い事にはいくつもの必然性と優位性があります。
ですが少ない事にも優位性が存在します。

まず少なければすぐ憶えられます。
すぐ憶えられるので速習として優れているのです。

そのため天心流は多重構造となっております。
天心流の伝位は初許、中許、奥許、切紙、目録、免許、相伝(皆伝)の七段階となっております。
初許、中許、奥許などは特に茶道、華道などの芸道に用いられてきた許状(ゆるしじょう)です。
あまり武藝では用いられませんでしたが、奥許は所謂「奥伝」などと同様に「師匠から奥義を伝授されること」という程の意味です。
芸道流儀によっては奥許の後に名取などがある場合もありますが、天心流では伝位が二段階となっております。

つまり深く奥に入るまでの、速習的段階として奥許までが整備され、そこから本当の奥の稽古に入るというものです。
もっとも、こういった形式を採っていたのは天心流に限った事ではないようです。

抜刀術などは一本抜と称されます、点の抜き、つまり足捌きをほとんど用いない抜刀法から学び、徐々に動きのある技を学びます。
応用変化、動乱の抜きを学んだ後に、奥に入りようやく正式な勢法(かた)に入るというのが往時の稽古法です。

現在は指導や稽古時間の都合上、かなり先の技も先に指導しております。
これは中村師家のご年齢を考えての事であり、中村師家がお元気な内に、可能な限り門人が多くの技に直に触れる機会を作りたいという願いがありまして、稽古段階を崩しての指導を行っております。

■ サボりがちな陰性の随意筋を目覚めさせる

様々な勢法(かた)を稽古致しますと、一般には技法の獲得という部分が主眼と考えられます。
ですが重要な効用として、身体運用を多角的に養う事が出来るという事が挙げられます。

甲野善紀先生、黒田鉄山先生、伊藤昇先生、高岡英夫先生など著名な武術家、研究家の方々のご活躍により、昨今では武術への身体操法、身体運用、機能解剖学的な側面からのアプローチが注目されております。

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往古には概念はありませんでしたが、実際に型の構成、動きの構成など、一見すると非合理的、非効率的と考えられ、感じられてきたものが、実は本来、働かせる事の出来る随意筋を必要とするものであったりする事が判明してきました。
当時は恐らく出来る出来ない、上手下手という分類で分かたれたものだったのでしょうが、そういった身体の内部の働きは、明文化されない腕前を左右する何かだったのです。

随意筋は意識して動かす事が出来る筋肉であり、実は身体の多くは随意筋です。
これに対して意識で動かす事の出来ないものを不随意筋と呼びますが、心臓や内蔵など、ごく限られた部位です。
耳が動かせる人などがおりますが、あれも実は随意筋なので、訓練すると誰でも動かせるものなのです。
解剖図を視ますとわかりますが、我々の身体は、実に多くに筋肉によって構成されていますが、多くの筋肉はさぼっています。
働き筋肉と、サボりがち筋肉があり、実は全身を使って…というような表現で運動を行いましても、その実はかなりの部位がサボっているのです。
幼少時は骨格の形成が不十分であり、その分だけあまりサボりません。
ですが中学校、高校あたりになりますと、授業中に寝ている生徒が出るのと同じように、身体の筋肉もバランスが崩れ、過労な筋肉と、サボっている筋肉の差が明瞭化していきます。

このサボりがちな随意筋を陰性随意筋と私は名づけております。
この怠け者を働かせるには、まず従来の過労筋肉くんの負荷を軽減しなければいけません。
それが脱力です。

古流武術には各流、脱力のための方法というものが伝わっている事が多いようです。
天心流にもいくつか伝わっており、典型的なものは肩幅程度に足を開いて立ち、他に二人がその両側から腕を持って上に持ち上げるという遊びです。
身体を力んで固めておりますと、簡単に持ち上がってしまいますが、脱力すると持ち上げる事が出来ないというものです。

こうした脱力の重要性を、様々な伝法によって深く理解し、まず力を廃して、力に頼らず、技を学ぶ事を教わります。

ですが同じ運動ばかりですと、やはり使われる筋肉群は限定されやすくなります。
そのためにより多くの運動法、つまり勢法(かた)を修練する事で、多角的に身体運用を養い、多くのサボりがちな陰性随意筋を働かせる事に繋がるのです。

■ 楽しい

あくまで副次的なものですが、技法が多い事の優位性として、楽しいという事もあります。
人間、同じ事ばかりでは飽きてくるものです。
もちろん同じ技法でありましても、正しく研鑽すれば日々変化し、上達に行き止まりはありません。
しかしそうは言っても限界がありますし、修業者全員がそれに耐えられるものでもありません。
インド人が毎食カレーを食べるといっても、毎食同じ種類のカレーではないそうです。

短期的にインスタントな速習という意味では、多彩すぎる技法を学ぶのは非効率ですが、長期的な修業が可能な時には、相応のレパートリーも修業のスパイスには良いものです。

楽しくもない稽古を無理に続けなければならない理由が現代人にはありません。
往時であれば家名と家禄を継ぐために、剣術の免許なり必要という事もあったようですが、現代の就職において、自動車免許は必要という事はありますが、要剣術免許という求人は見た事がありません。

■ 権威付け

もう一つ副次的なものとしては権威付けが行えるという事があります。
これはまさしく宮本武蔵が「五輪書 風之巻」において批判している「道をうり物にしたてゝ太刀数多くしりたると初心のものに深くおもはせんためなるべし」という部分に該当するかと思います。

他流に無い技、工夫があるのだ!というのは一つの謳い文句になるのは間違いありませんし、実際そういう工夫が勝敗を決する事もある事は、以前にも述べた所です。

しかしこれは前段の「楽しい」にも言える事なのですが、あくまで副産物であり、それを目的に技法を増やすという事では本末転倒になってしまいます。
もし歴史的過程の中で、何れかの伝承者がそのような目的の元に増やしたという事があれば、それは不幸な事といえるかもしれません。
技の数が増えれば、階梯も増えて、許状の発行によってそれだけ儲かる…という面も否めません。
多く持っていればそれだけ独占も容易です。

もちろん天心流に限らず、代々の師範が客寄せの為に技法を増やしたと断ずる流派など存在しないでしょう。
もし仮にそうだったとしても、そういった来歴も含めましての伝統ですし、タイムスリップして問いただす事が出来ない以上、やはり型は不磨の大典として遺し、磨くべきは各々の技法なのですはないでしょうか。

■ スタンダードな型の効用

・テクニックを身につける事
これは言うまでもないのですが、どのように自分の身体を動かし、どのように敵を動かすと、効果が発揮されるかという技法の修得です。

・条件付けを行う
これは最適な攻撃、防御、反撃など、その条件下で流儀が最適と考える運動を行うように、条件付けるという事です。
つい技を使おう、型を使おうと考えてしまいますが、仕掛ける場合など、意図が有効な場合や、誘いを持って発揮する技法を除けば、技や型は使うものや出すものではなく、勝手に出るものです。
実戦ではその通りではないにせよ、類似系の運動を、流儀の理論にしたがって発揮する、そのための条件付けを行うのです。

・戦闘法を身につける
つまりどのような動線をたどると、我が身が安全かつ効果的に敵を倒す事が出来るかを教えるのです。
安全と効果に対しての割合は、流儀の設計思想を端的に表すと言えます。
固定的なものとは言えず、型によって違いがありますから、そういった中で視えざる矩を生み出すのです。

・間合を識る
これは戦闘法に含まれるかと思いますが、彼我の間積り、間合いを識るという事も重要な要素です。

・機会を識る
武術ではタイミングも非常に重要な意味合いを持ちます。
同じ技法でも、敵の斬撃に対して早すぎれば気取られ変化されますし、遅すぎれば間に合いません。
その技法にベストなタイミングを身につけます。

・身体を作る
筋肉など、その型を通じて、流儀の理想とする身体を作る効果があります。
何と言っても流儀の型は流儀のものですから、自ずとそこで必要となる身体は流儀に最適化された身体です。
無駄な力を使わない事を如何に意識して稽古しましても、運動に応じて嫌が応でも筋力など増強されます。

ざっと思いついたものを列挙しました。
これら一般的な型の意味合いがありますが、いずれも正しい型の稽古がなければ獲得出来ないものです。
我々はつい安易に正しい型というものを考えてしまいますが、実際は間合いや攻撃がずれてしまうと成立しないものです。
成立しないものを無理やり成立させるなど、応用変化としては問題ないのですが、基本としてはまったく上達しないどころか、却って退歩の畏れがある行為です。
型には設定条件、前提条件があり、それを墨守してこそ意味をもつのです。

設定条件、前提条件が揃わないままに稽古を重ねて、それでもって型は実戦的ではないと断ずる場合もよく視られます。
聞いてみると、柔術などでは、攻撃側がどういう意図で掴んでいるのかわからず行っていたり、剣術ですと、そもそも攻撃が届いていなかったり、想定外の場所を切っているという事も起こります。

型に嵌まらぬようにとは天心流の口伝ですが、しかしなんでも自由では結局矩を身につける事が出来ず、型なしとなります。
そういった人が型稽古には意味が無いと断ずる事が少なくないように思います。

■ まとめ

世の中には一見すると筋が通っている、ロジカルだと思うようなものが多々あります。
現在の型は形骸化していて使えない。
型が多くても意味がなく、シンプルで数が少ないのが本当に実戦的なものだ。
権威付けと門人を増やすために型を増やしている。

しかしそのような指摘が必ずしも、的を射ているとは限りません。
長年培われていた深淵の理を安易に否定する事は、決して賢い事ではありません。
またそういった考えもあると、批判に反論をせず、喧伝を許す事は結局、自らの首を絞める事になってしまいます。
分かる人には分かる…というのはどこの世界でも主張されることですが、分かる人を育てるのは非常に難しい事なのです。
まして黙っていれば、主張する側の理論ばかりが理解されていくのです。

天心流は深く流れる命脈をもつ生きた兵法です。
これを生かすも殺すも、我々次第であり、これを生かす事こそが我々の使命だと考えております。
もちろん門人一同がそこまで突き詰めて考えているわけではありませんし、その必要も無いと思います。
そこまで気張らずとも、稽古を明るく楽しく真剣に行えば基本的にそれで良く、またそれが何より正しい命脈を保つ道です。
ただ技や勢法が多い事の意義を深く識る事で、その価値を深く理解する事になります。

長々と書いて参りましたが、技の多少にかかわらず、現在は長く稽古していける時代ですから、生涯学習の一つとして、古流武術がその周辺文化を含めて愛好されていければ何よりなのでは無いかと思います。

型文化は型を通して多くのメッセージを内包して手渡す事が出来る宝箱のようなものです。
残念な事に、型稽古、或いは型文化の素晴らしさ、重要性、そして効果が十分に評価されているとは言い難いのが現状です。
殊更に武術の世界では軽視されがちなものです。
それは型の凄みを見せつけられないというのも、一つの原因かもしれません。
型は上手でも実戦ではパッとしない…というような現実問題も孕むものと思います。
もっとも特に剣術、抜刀術などでは、本当の実戦など現代ではありませんから、試合などが実戦という事になりますが、実戦と試合の解離性、また型が想定する実戦と、試合の解離性という問題もあるのですが。

まあ試合云々は別として、型稽古を通じて獲得した実力を、後から来る人々に疑いようのないレベルで示す事ができれば、必然的に型の軽視を防ぐ事に繋がるものと思います。

もちろん天心流の稽古は勢法(型)のみで行われるものではなく、一定の自由攻防なども含めて行われますから、勢法(型)絶対至上主義ではありません。
「勢法(型)のみが絶対」なわけではなく、あくまで「勢法(型)が絶対」なのです。
つまり「『勢法(型)』を信じて、かつ『勢法(型)のみ』を信じない」のです。

我々は型という文化を通して、流儀という形而上の存在に触れる事が出来ます。
今伝承する型が必ずしも流祖の創案したものと完全に同一のものかはわかりません。
多かれ少なかれ代々師範によって工夫され変化し、また付け加えられたり整理されていると考えられます。
ですがそういった変遷の結果も含めて、流儀流派という存在です。
それを識り、学び、味わうというのは型を修練するという事に他なりません。

型を重んじる日本人の特質が、得てしてマニュアル人間などと揶揄される向きもあります。
それは型の弊害、功罪の罪の側面として、現実的に存在する大問題です。
しかし、イコール型は無用の存在という事にはなりません。
型の問題に関しては、古来より指摘されて来ました。
型が身心を固着化してしまう事を防ぐ事も含めて、流儀は完成体として存在しています。
私達はその事実を顕在化し、今後型軽視の論調を吹き飛ばせるよう努めなければならないと思います。

 

 




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