「号」の文化について

号とは

号とは中国大陸に端を発し、日本に定着した文化です。
これはいわゆるアダ名、通称、ニックネームなどと言い換える事が出来ますが、何かの藝を持つ者が、その活動において用いられるものが号になります。
号の起源は中国北宋の欧陽脩(1007~1072年)とされます。
もっともアダ名、通称、通名などはもっと古くからありましたが、「文化人が自ら用いた称号」という程の意味では
欧陽脩ははじめ醉翁を号とし、後には六一居士と号したそうです。
この後、多くの名だたる文人がこれに続いて号を用い流行となっって定着しました。

この号の流行は日本にも定着し、様々な分野に用いられるようになりました。
使用目的に応じ、画家であれば画号、狂歌作者は狂名(きょうみょう)、俳人は俳名や俳号、芸人であれば芸名、吟詠家ならば吟号などです。
小説家は筆名。今ならば漫画家やイラストレーターなどもペンネームとするのが一般的です。

雅号が有名ですが、これは文人・画家・書家など幅広い分野の号を指します。
どちらかと申しますと「風雅な名」という程の意味であり、「雅やかな書芸全般に用いられる名」と解釈するのが良いかと思います。

この号という文化があまりに定着し広まったために、諱(忌み名)や字(あざな)より号で知られている歴史上の人物もおります。
明治維新の精神的指導者として知られる吉田松陰の「松陰」も号です。
本当の名前である諱は矩方(のりかた)なのですが、諱は特別なものとして普段は用いません。
このような漢字圏に見られる文化は「実名敬避俗(じつめいけいひぞく)」と呼ばれております。

代わりに用いる字(あざな)や、通称があり、さらに号もあって、日本史をややこしくする一因と言えます。
さらに苗字までも変える事も多く、武術の伝書研究の世界では、名前の異なる人物をよくよく調べたら同一人物だった、等という事も出て参ります。

また有名な葛飾北斎などは、一説にはその生涯で30回も改号したそうです。
あくまでも号ですので、そこまで絶対的に不変なものではないのです。

堂号・室号

耳慣れないものでは「堂号」と呼ばれるものがあります。
堂の付く雅号・屋号の事を申します。
京極夏彦先生の小説に出てくる「京極堂」も一種の堂号と言えます。
特に屋号、つまりお店などの名前に使われる事が多いようです。

江戸初期の僧である松花堂昭乗が構えた草庵を「松花堂」と申しまして、堂号は古くから用いられてきたようです。
ちなみに斎がつくと「斎号(斎名)」と呼ばれます。
これが部屋に用いられますと「室号」となります。

またこれらをそのまま自らの号とする場合もありました。

武号

現在は、武術家が号を用いる際には、武号(ぶごう)と呼んでおります。
この名称が用いられるようになったのはいつからか判然としませんが、恐らく江戸期には使われていなかったのではないかと思います。
当時は恐らく単に「号」とのみ呼んでいたのでしょう。
ですが現代では分かりにくいために、武術の世界では武号という用語を特に用いており、天心流もこれに倣っております。

中村天心師家について

天心流兵法第九世 中村天心師家の「天心」も、本名ではなく号です。
これは天心流が生まれてより、代々師家が流儀と共に継いできた大変由緒ある号…ではありません
第八世の石井先師は号を持っていらっしゃらなかったそうです。

武号ではなく、武家としての号という習慣があったので、特に号を用いる必要が無いと考えていたようです。

中村師家が石井先師から代を譲り受けた際に、「本名は親から授かった大事なものだから大切にしなければならない。」と天心の号を賜って用いたそうです。

「天心」を武号と致しましたもう一つの理由としては、当時その価値を見出されず、習うものも居なかった天心流兵法を可能な限り世に伝え残したいという一心でありました。
今でこそ日本の伝統文化として一つのステータスを確立したと言える古流武術ですが、石井先師の時代には若き頃の中村師家以外にはまともに学ばれる弟子はおりませんでした。
中村師家は昭和18年生まれで、明治25年生まれの石井先師に教わりはじめたのが16歳前後、1959年前後です。
終戦直後ではありませんが、高度経済成長のはじまった頃であり、武士の武術などは誰も省みる時代では無かったそうです。

石井先師のご子息も興味が無かったそうで、武術を学ばれる事はなかったそうです。
このまま身と技と共に流儀も朽ち果てるか…という所で、当時まだ青年時代の中村師家が入門され、文字通りに唯授一人の継承者として継がれたわけです。
「人は一代 名は末代」でありますから、せめて名前だけでも後世に遺したい…そんな想いもあって授けられたようです。

そのような経緯から名乗られている天心の号ですので、門人は「天心先生」とお呼びしております。
今後は当ブログでもそのように記述させて頂きます。

因みに天心流の第二世である国富忠左衛門師は休心を号としておりました。
国富家ではこの後数代に亘って天心流と共に、名前もそのまま継いでおり、天心流の正式な代がはっきりしない理由になっております。
石井先師の時点で、伝書の名前のみを置いますと第八世となっておりましたが、実際は国富忠左衛門姓名にて、三代から四代続いたと言われており、本来は石井先師の代では十世ないしは十一世ほどとなると仰っていたそうです。
ですから中村師家が十一世ないしは十二世であり、私は十二世ないしは十三世となるのですが、伝書にある名前の数をそのまま当てはめて用いております。

鍬海政雲の武号に関して

大十世 鍬海政雲の名前についても、よくいかつい名前だと言われますが、これも武号です。

本来、号は号のみを用いるか、或いは名に続けて付すか、或いは名前に変えて付けるなどして用いられるもので、苗字まで変えるという事はあまり御座いません。

全部変えてしまうとなると、これは武号というより、芸名という性質になります。

ですが、天心先生が随分な日数を掛けて悩んで下さり、勢い苗字まで考え頂き、天心流剣士として活動する際に用いると良いと授かりました武号ですので、現時点では苗字も含めてそのまま使わせて頂いております。
もっとも歴史的な観点で号を振り返りますと、そうおかしなことではないのかもしれません。
その事は後述致します。

門人への武号授与

天心流では、一定の稽古年限を過ぎた門人へ、天心先生から武号が与えられております。
これは石井先師が「本名は親から頂いた大切なものであり、武藝諸活動でそれに疵がつくような事がないように、号を用いなさい」とお話になり、天心の号を頂いた事に由来します。

号ですから各々が自由に定めて号する事も出来ますが、師匠より証として授けられるというのは、やはり特別な価値があります。
またあまり個人的趣向に走ると、いわゆるドキュンネーム、キラキラネームなどといわれるようなものになってしまう懸念があります。
もっとも、号ですからそこまで神経質に捉える必要はないのかもしれません。

●天心先生からの武号の授与

歴史的な名前の話

キラキラネームが社会問題化しておりますが、号という事では江戸時代も負けておりません。
「画狂老人卍」「鉄棒ぬらぬら」などの甚だユニークな号を用いていた人が居りましたがどちらも前述の葛飾北斎の号だそうです。
「鉄棒ぬらぬら」は春画を描く時に用いたようですが、インパクトのある号です。

【これが88歳の作品!?】葛飾北斎が老いてから描いた画が強烈すぎる【波の画だけじゃない】
http://bakumatsu.org/blog/2012/12/hokusai.html

号というより通称ですが、徳川家康の祖父松平清康が家臣の長坂信政に与えた通称が血鑓九郎(ちやりくろう)だそうです。
そもそもの通称は茶利九郎(ちゃりくろう)だったそうなのですが、「戦場にすゝむごとに鎗に血ぬらずといふことなきにより」という事で語呂合わせで改称させたと『寛政重修諸家譜』は伝えております。

また家康ご自身も相当な逸話があり、旗本の米津(よねきつ)家では、代々神君の命名により梅干助を称したそうです。
これは「うめぼしのすけ」ではなく「ほやのすけ」と呼ぶそうで、「汝が顔は梅干しに似たれば、梅干之助と仮名(けみょう)を付け」だそうで、酷い話のように感じますが、それを代々用いるというのもまた面白い話です。
「ほやのすけ」と読む理由などはこれらの逸話が掲載されている「サムライとヤクザ」(ちくま文庫)をご覧下さい。

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この書には、他にも様々な名を家康が与えていると書かれております。
小栗又一忠正は、戦でたびたび一番鑓の功をあげて「また一番鑓か」という感嘆を名前として又一の名を授かりました。
大塚甚三郎某は敵の鑓を奪って突き伏せる、「またともない働き」を見せた事から、又内の名を授けられました。
他にも名だけでなく、姓を改めさせる事もしたそうです。

会津藩の旗奉行の楢林主殿(ならばやしとのも)の名乗りはまた特異なものとして知られております。
楢林は自ら悪魔外道左衛門と名乗っていたそうで、さすが朋輩から咎められていたようです。

文化的研究と保存

このように、名前の文化に関して見ていきますと、それだけでも非常に奥深いものがあります。
古流武術としての技法などの伝承はもちろん大事ですが、それを大事にするという事は、その武術が育った風土、風習などのバックボーンへの理解も必要になって来るものと天心流では考えております。
もちろんこういった学習が門人全員の必修ではありません。
各々に抱える想いがあるでしょうから、それぞれにそれを大事として、日々の稽古に励んで頂く事が何より肝要です。

あくまで流儀として、門人の有志によってそういった故実も含めた文化的研究と保存を進めていければと考えております。
日本国はわずか百五十年前までは、髷を結い、袴姿で二本指しの侍が町を闊歩していたのです。
ですが思いの外私たちはその実体を識りません。
一説では明治政府によって、暗黒時代として徳川の治世を流布し、その真実の姿が隠されてしまったとも言われております。
いささか陰謀論めいた話ではありますが、ともかく文化的断絶が甚だしく、まだまだ研究が必要な事は間違いありません。

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