續群書類従 酌井記と合掌礼について

坐礼と床座の文化

一般に坐礼の最敬礼は合手礼(がっしゅれい)とされております。
これは肘から掌までを畳に附す事から「合手」の文字が当てられたと言われております。
現在でも正月では新年のご挨拶をこの合手礼にて行う家があるかと思いますし、茶道など伝統文化でも用いられておりますが、往時は常の礼法として用いられておりました。

合手礼

明治以降、日本の床に坐る文化を、欧米などの椅子を基調とする生活形態と区別して「床座」(ゆかざ)文化と称するようになりました。
(対して、椅子に腰掛ける文化を椅子座文化と呼びます。)
床座の文化は今なお日本には根強く、室町時代に生まれ今も冬の日本の風物詩であります炬燵(室町時代よりありました)はその典型でしょう。
また巨人の星で一回しかひっくり返していないにも関わらず、あたかも登場する毎に主人公星飛雄馬の父一徹がひっくり返しているイメージの卓袱台(ちゃぶだい)もその一つでしょう。
(ちゃぶ台は江戸時代には用いられていなかったそうで、明治後期より登場し広まったそうです)
また玄関で履物を脱ぐというのも、床座の象徴的なスタイルと言えます。

このように今なお日本では床座のスタイルが愛され続けていますが、その礼式、礼法などは顧みられる事がなく、廃れていく一方となっております。

室内で坐して礼を行う事を坐礼(ざれい)と申しますが、この坐礼と土下座の区別もあまり識られておりません。

・坐礼と土下座の違いについて
http://tenshinryu.blog.fc2.com/blog-entry-139.html

教えてもらう機会を失えば、何かきっかけが無い限りは識らないままなのは当然の事なのでしょうが、日本の文化という意味では、最低限の知識を学校教育などで教えるべきなのではないかと思います。
柔道や剣道などの武道を採り入れるのはかなり大変なことですが、坐礼の基本を学ぶのは先生方もそこまで苦労する事はないのではないかと思いますし、時間も少しあれば事足りると思うのですが。

合掌礼について

天心流兵法でも、坐礼における最敬礼としまして、合手礼を長く用いておりましたが、ある時に天心先生より「本来の最敬礼は合手礼ではなく合掌礼(がっしょうれい)である」と指導を受けました。
合掌礼と申しますと、一般に両の手の平を合わせて拝む事を指しますが、天心流の合掌礼は異なります。

天心流に伝承いたします合掌礼とは、両の手の平を合わせ、両指を組み床に附して、頭を垂れて深々と礼を行うものです。
この時、合手礼と同様に、吾の掌から肘まで床に附して礼を行います。
指を組むというのは、決して解かぬという意味で、これは決して害意を持たない事を示すものです。
いわば「李下に冠を正さず」(スモモの木の下で、冠を直すと、スモモ泥棒と勘違いされるぞ!転じて、疑われる行為はすべきではないという故事です)の精神を示すといったところでしょうか。
武士は戦人ですから、その身には、常に刃物を身につけているものです。
そういったものに決して手をかけないという精神をあらわした礼法になるのです。

合掌礼

これは非常に謙った礼法であり、使命を帯びて他藩の藩主に接見する際など、特別な時に用いる拝礼の一種であり、特別なそれを用いるのに適した勢法の演武の際に用いております。

話が少し横に逸れますが、私(鍬海政雲)が入門するまで、長年の間、天心先生は相伝を諦めており、門人が覚えて習得出来る範囲で、自分がきちんと記憶している、いわば天心流のごく一部のみ教えていました。
しかし私は二十年近く武道を学んでおり比較的上達や覚えが早く、また生来の完璧主義なため、せっかく天心流を学ぶのだから、日本の伝統文化ですので可能な限りの情報を後世に伝えるのは私の一つの使命であり、この出会いの意義だと一念発起し、可能な限りの時間を天心先生と共に過ごし、何から何まで根掘り葉掘り執拗に問い、日々稽古に励みました。
曖昧な記憶で間違ったことを教えることを極度に恐れていたり、また先代との約束から口を固く閉ざしていた天心先生でしたが、私の熱意を認めていただき、徐々に天心先生は、それまで指導されなかった天心流のすべてを伝えるべく本腰を入れた指導に移られるようになりました。
この合掌礼もそうした中で正しく伝えるべきと教えていただいたものです。

これはあまりに珍しい礼法であったためか、周囲からは批判の声もありました。
曰くは「そのような妙な礼法は日本には存在しない」、「みっともない」、或いは酷いものでは「中村先生が考えたんでしょう」等という言葉まで耳にしました。

礼法は伝書と、石井先師からの口伝に拠るものであって、そのようなものがあったという文献上の記録などは中々見つからず、反論も致しませんでした。
口伝とはそういった一面があります。

ところがそのしばらくして、「續群書類従 酌井記」を読んでいた所、以下の記述を発見しました。

酌井記

續群書類従 酌井記

一 人の前へ出て禮をする事
先(まず)扇ぬきて出(す)へし
座敷をありくに餘ねりたるも、又足はやくなるも見くるし
能ほとにあゆみ、扨(さて)主人を見付、やかてつくはい、主人との間近くは、さいよりこなたにて禮をすへし
主人との間に座敷もへたゝり程遠ハ、さいよりはいりて禮をすへし
年寄りたる人なとは、兩の手を合ておかむやうにして、指先を組て禮をしたるもよし。
乍去わかき人の左様にしたるは、餘こひ過てわろし
兩の手を少引て、扨禮をすへし
疊にあたまのつくほとに、いかにもいんきんに禮をすへし
餘り久敷もわろし
亦餘しやつきやくにあたまの高くもひろふ(尾籠)なり
能々心を付ていんきんにすへし
かへる時ハ、いつかたゑ成とも、近き方へまわるへし
左へまはれは右
右へまはれは左の手をつくへし
立様肝要也
かきのせかたし


簡単に現代語訳しますと


一 人の前へ出て礼をする方法について

まず扇を腰より抜いて出します
座敷を歩く場合に、間合いが詰まったり、遠くなったりすると見苦しいので、調度良い歩幅で歩みましょう。
また歩む速度が早すぎてもせわしなく見苦しいものです。
丁度良い速度で歩き、主人を見つけたならば両膝をつきます。主人との距離が近い場合は、部屋の手前で挨拶を行いましょう。
座敷が広く主人との距離が遠い場合は、部屋に入って挨拶をするのがよいでしょう。
年配の方であれば、両方の手を合わせて拝むようにして、指先を組んで礼をするのも良いでしょう。
ですがあまり若い人がそのような礼法を用いるのは、大げさ過ぎてあまりよろしくありません。
両手を少し引いて礼を行いましょう。
畳に頭がつく程に、いかにも慇懃(真心がこもっていて、礼儀正しいこと)に礼を行いましょう。
あまり長時間頭を下げるのもよくありません。
また逆に頭が高くても失礼になります。
よくよく心を込めて慇懃にするべきです。
帰る際には、上座下座に関係なく、近い方向に回りましょう。
左に回る時は右手、右に回る時は左手をつきます。
立ち方も重要な事です。
書き記すのは難しい事です。


正確な訳ではないかもしれませんが、おおよそ文意は伝わりましたでしょうか。
この中の「年寄りたる人なとは、兩の手を合ておかむやうにして、指先を組て禮をしたるもよし。乍去わかき人の左様にしたるは、餘こひ過てわろし」という部分がまさしく天心流に伝承致します合掌礼と合致したものです。

この酌井記の文末に「明和元(甲申)年十一月廿一日校合畢 貞丈記」とあります。
これは江戸時代中期の旗本であり有職故実研究家として多くの故実書を残した伊勢貞丈の著作です。
明和(めいわ)は、宝暦の後で安永の前、明和元年は1764年になります。

当流ではこの合掌礼は戦国期にはあった非常ぬ古い礼式であると口伝されておりますが、この頃には既に用いられる機会がほとんどなく、あまり識られていなかったものと推察されます。
明和の頃でも既に古めかしい礼式であったからこそ、「年寄りたる人」が用いる場合もある礼法であり、「わかき人」が行うのを推奨しなかったのでしょう。


生きた礼式として

このように生きた礼法を今に伝えていた事に驚き、文章をコピーして中村師家にお渡しした所、大変喜ばれておりました。
ひと通りの形式は文章でもある程度伝わりますが、本当の形は伝承をもって伝える以外にないというのは武術に限らない真実です。

中村師家からはまた小笠原流礼法でも類似の礼法が存在すると教えて頂きました。
これは同じように両指を組みまして、組んだ形のままで小指側を下にして両拳を床につけます。
そして親指と人差し指の間に顎をのせます。
これが小笠原流礼法の古式の礼法になるとの事です。

小笠原流礼法の現代の書籍や江戸期の書物など調べてみましても、今のところは該当する礼法は発見出来ておりません。
もっとも小笠原流礼法は現代も継承されておりますから、この礼式が間違いでなければ、相伝家には伝わっているものと思われます。

以前の記事(群書類従について)で紹介致しました塙 保己一とその意志を継ぐ人々の手によって、合掌礼に関する確認が出来ました。
中村師家が石井先師より相伝した流儀の教えはあまりに膨大な情報です。
時代が違うから意味が無いかもしれないけどそのまま教える」と時代離れを覚悟の上で石井先師はこれを伝え、その想いに中村師家は応えて学び励みました。
それから既に半世紀程の時間が経ちまして、ご縁を頂き門人一同がこれを学ぶ事が出来ております。

武術と礼法について

礼法について、全てではありませんが、非常に多くの教えがある天心流なのですが、実はそれは非常に珍しい事のようです。
ではそもそも武術において礼法とはどのような位置づけを持つものなのでしょうか?
そしてなぜ天心流では礼法を重視してきたのでしょうか?
次回はその事について記述させて頂こうと思います。

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