先日電車内で、六人ほどの男子高校生が脚を投げ出して、ぐったりと座っているのを見かけました。
特に混雑しているわけではないので迷惑というわけではありませんでしたが、所謂「だらしない格好」というところでしょうか。
(混雑していれば相応に坐ったと思いますが、部活の帰りなのかよっぽど疲れていたと思われます)
別に批判したいわけでもなく、そんな彼らの姿を見てふと背もたれについて考えてみました。
日本文化と背もたれ
日本の文化を考えた時に面白いのは、どうやら明治以前の日本人は、「もたれかかる」という習慣がほとんどなかったのではないかと思われるところです。
前回の「跨がない文化」に記しました通り、日本は床座文化であり、当時の武家屋敷や長屋、農家などの絵を見渡しても、寄りかかれるのは柱や壁程度で、背もたれがあるようなものが存在しておりません。
そして壁や柱に寄りかかっている様子が描かれているものは、非常に少ないのです。
いやまったくもたれれかかる事が無かったわけではありません。
現に脇息(きょうそく)というものが存在します。
時代劇などで一度はご覧になった事があるかと思います。
現代でも旅館などに置いてある場合もあります。
これは肘掛けで、座ったとき身体の前や脇に置いて、肘をのせて身をもたれさせる道具です。
これは大変古くからある安楽用具で、記紀(古事記と日本書紀)には几と書かれ「わきづき」「おしまずき」と呼称していたようです。
中国大陸では机や腰掛ける台など全般を「几」と呼称していたため、その影響からの名称と考えられます。
中国大陸では凭几(ひょうき)と呼ばれているそうです。凭は「凭(もた)れる」という程の意味です。
日本では奈良時代に挟軾(きょうしょく)と呼ばれておりました。
「挟」は挟むというそのままの意味で、「軾」は中国の車馬において、前に設けた横木の事です。
車上で礼を行う際にこの軾に手をついていたと言われております。
「前にもたれる『軾』を左右『挟』み台とする」
という程の意味から挟軾という名称になったものと推察されます。
一般に脇息は文字通り脇に置いて息つくものなのですが、初期の挟軾は前に置いて、肘を置いてもたれかかるものが主でした。
現在見聞きする脇息よりも、大きめのものだったようです。
平安時代以降に、脇に置くタイプに以降し、形状も変化しました。
それまで直線状だった天板が、緩やかな三日月の形になったのです。
また肘を保護する綿入りが用いられるようになりました。
(それ以前にも褥を用いたいた事があったようですが)
これによって現在我々がよく知る脇息が完成したのです。
女性のものは抽斗(ひきだし)が付けられたり、大名の脇息などは、脚の彫りも工夫され、豪華な蒔絵が施されました。
もっともこれは、くつろぐ時に用いるもので、平素常用するものではありませんでした。
訪問者を接客中に用いるようなものではありません。
(老齢の武士であったり、余程の親しい間柄であればその限りでは無かったようですが)
脇息は基本左に置いて用います。
天心流兵法外物口伝では咄嗟の際にはこれを受けに用います。
また天板部分を掘り下げて、蓋をつけておき、中に目潰し、手裏剣など隠して用いました。
ですから天心流の教えでは綿入りを乗せないタイプを推奨しておりますが、中々隠し蓋のある脇息は手に入りません。
(綿入りを乗せる場合は、そのまま綿入りの下に針など差し入れて隠す事も出来ますが)
日本文化と背もたれ
さて脇息という道具がありますように、絶対にもたれかからないという事はありません。
正確に表現すると、「背をもたれない」というべきでしょう。
床座文化を今も残しておりますが、座椅子に見るように、現在では背をもたれかける事は至極当然の事として行われております。
古武術研究家の甲野善紀先生の著書に紹介されておりましたが、幕末に日本を訪れた西洋人が、雑巾がけなどを見て日本人の背中の強さに驚き、「もし我々があれを行えばたちまち背骨が折れてしまうに違いない」等と記していたそうです。
いやいや折れないよ・・・と思わずツッコみを入れたくなりますが、「背もたれない」事が関係しているのかもしれません。
という事で「背もたれの文化」とか「背もたれの歴史」など考えてみたい所なのですが、ネットで検索かけても椅子の商品ばかりでヒットしません。
先行研究がまるで無いという事もないかと思いますが…。
ともかく昔の日本人はあまり「もたれないかった」のは事実だと考えて良いかと思いますが、これは実に不思議な話です。
背もたれれば非常に楽です。
なぜ日本人は背もたれを嫌ったのでしょうか?
ちなみに駕籠には肘掛け、背もたれが付いているものもありました。
Photo by (c)Tomo.Yun URL(http://www.yunphoto.net )
これは背の部分の板にビロード布やい草など貼り付けただけの実に簡素でとってつけたようなものに過ぎません。
背もたれももたれかかりやすくするため斜めに板を通して布を付すなどすれば、重心も中心に寄って駕籠かきが担ぎやすくなったでしょうし、もたれかかって楽だったのではないか…などと空想してしまいます。
こればかりは駕籠を買って改造して担いでといろいろ実験してみなければなりませんが。
このように往時の事を本気で考えると、やはり中々大変なものがあります。
今の時代に駕籠を体験するならば以下のようなサービスがあるそうです。
他にもいろいろな場所で駕籠乗りの体験をしている場合もありますので、機会があったら乗ってみたいものです。
さてこのような事を電車内で全力でもたれかかる男子高校生を見て考えておりました。
現在ではどこに行っても背もたれがあるのが普通です。
なければとにかく寄りかかれるものを探します。
町中や商業施設での待ち合わせでも壁にもたれかかる姿は普通に見られます。
では背もたれない理由は?
一つは着物が関係しているのかもしれません。
特に腰板がある袴は、あまり背でくつろぐという事には適しておりません。
この腰板も古い袴には武家でも腰板がなく、一説には「姿勢を美しくするため用いられた」と言われております。
しゃんとした背筋を生むための腰板と背もたれの相性は如何にも悪そうです。
また背もたれは着崩れしやすく、背で縫い合わせる着物にとってはあまり好ましいものではありません。
以前こまどり姉妹のお二人と同席させて頂く機会がありましたが、古稀(七十歳)を過ぎられても、着崩れるという事で椅子に坐らずお立ちになっておりました。
凛とした立ち姿の美しさは、日本人の根底にある「もたれかからない文化」が生んだものなのでしょうか。
姿勢について
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こちらには「現代の若者に多く見られる」として、「みぞおちの落ちた悪い姿勢」という写真が掲載されています。
これは「不良姿勢」と言うらしくネットによれば以下の様な条件となっております。
1.背中が丸まっている。
2.お腹が前に突き出している。
3.アゴが前に出ている。
4.骨盤が前に倒れている(出っ尻)。
これはだらしなく寄りかかっている姿勢と類似しております。
そこまでぐったりと疲れきってもたれかかるというのは、あまり日常的な事ではないでしょうが。
前や横にもたれるよりも、背にもたれるほうが楽な姿勢のように感じます。
昔の人は疲れたらどうするのか?
恐らく正しい姿勢でいられれば、そもそもそれほど疲れないものなのではないでしょうか。
松下電器、ナショナル、パナソニックの創業者である松下幸之助翁の逸話に、著作の校正中に半日以上も正座のまま、作業を続けたというものがあります。
当時松下翁の秘書で校正の手伝いをしていた江口克彦氏が書かれていたと記憶しておりますが、松下翁が脚も崩さず集中している中で、まさか自分から崩したり、休憩を挟もうとも言えず、その集中力に改めて驚嘆するとともに、随分しんどい思いをしたと書かれておりました。
当時松下翁は七十歳を越えていたと言います。
若者が苦痛にあえぐ中、五十歳近くも歳の離れた老体がそれを平然と行っていたというのは、超人と考えてしまいます。
情熱か、集中力か、根性か。
いずれも正解なのでしょうが、もうひとつが培った姿勢にあるのではなかろうかと私は推測しております。
つまり背にもたれる楽は快楽であって、決して身体が楽なのではないという事です。
不良姿勢は様々な疾患の原因になるそうなのです。
姿勢を取り戻す
現代において背もたれを捨てるというのは中々難しいことです。
「稽古場では壁に背もたれない事」と名言しなければ、背もたれる程、現代人は背もたれる快楽に身を委ねてしまいます。
私は作業椅子の背もたれを外して使っており、今も背もたれはありませんが、外した当初はつい背もたれが無い事を忘れてもたれかかり、倒れそうになっておりました。
普段電車などでも背はもたれません。
(そもそもあまり坐りませんが)
背もたれのある椅子に坐ってもほとんど背もたれにより掛かる事も致しません。
そういった出来るだけ背もたれない意識を持つ事は大事なように感じますが、もう一つ、背筋の矩を通すという事も大事だと思います。
睡眠前と起床時に寝たままぐっと背を伸ばす事や、また一日数分間でも座禅を組んで、姿勢を正そうと意識すると、日頃崩れている背筋を逆に識る事が出来るのです。
もっとも大事な事が、自らの背筋を感じる意識であり、それを正そうという意識です。
背筋をのばそうと反り返ってしまう事もあるので注意が必要ですし、棒人間のような背筋は武術的に見ても正しい訳ではありませんが、かといって不良姿勢が良いわけもありません。
姿勢を取り戻すというのは、身の矩を取り戻すという事です。
そしてそれは年齢に関係なく、身を美しく整える自らの躾となります。
もちろん昔の人の姿勢が総て例外なく美しかったというのは幻想だと思います。
ですが一つの文化として「背をもたれない」事が生み出した精神性や身体を顧みて、現代に生かしていく事が、文字通り温故知新であるのでしょう。