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秋はアウトドアに最適な季節です。
アウトドアと言えばキャンプであり、キャンプといえばなんといってもバーベキューです。
もちろんキャンプ場のみではなく、町中の公園や河川敷でも行われ、手軽なアウトドアとしてバーベキューは親しまれています。
ちなみにバーベキューの語源は「丸焼き」を意味するスペイン語のbarbacoaだそうです。
ところが近年、バーベキューの禁止が各地で決定しております。
★須磨海浜公園H24年7月1日より全面バーベキュー禁止
★道後公園、バーベキュー来春禁止計画 賛否の声
★狛江市多摩川バーベキューは市の条例で全面禁止に!2012年4月より実施!罰則もあり!
ゴミの問題、騒音の問題などが多発して改善しない以上、苦渋の決断もやむを得な事なのでしょう。
この手のニュースを見る度に「携わる者の責任」について考えます。
テレビのニュース番組では決まって「ルールやマナーを守っている人」がある種の被害者として登場します。
「一部のルールを守らない人のせいで、ちゃんとルールやマナーを守っている自分たちまで迷惑を受ける」
というようなコメントはニュース番組のお決まりとなっています。
煙草も同じような風景が見られます。
路上喫煙にポイ捨てなどで迷惑を被るのは、ルールやマナーを守る善い喫煙者であるというのはもっともな意見です。
しかし携わらない人々にとっては、ルール違反・マナー違反者も、そうでない人も一緒くたに加害者になります。
バーベキューが行われる場所の近隣住民、あるいは非喫煙者にとって、グループ分けはあまり意味がありません。
煙草はポイ捨てしなくとも煙と匂いを出しますし、そもそも喫煙コーナーの存在そのものすら邪魔とされる昨今です。
火事の原因(総務省消防庁調べ)としてもトップが煙草になっておりますし、税金を支払ってるなどの言い訳が許されない程に敵視されております。
私は喫煙しませんが、喫煙者の友人などは値上げの度に怒っており、また肩身の狭い思いをしているようで、喫煙を貫くのは経済的にも周囲の視線・プレッシャーという意味でも大変な事です。
バーベキューにしても、たとえゴミは持ち帰っても騒音はあるでしょうし、水場の近くなら水質問題もあるでしょう。
あまりお行儀のよくない方々も来るでしょうし、道も混んだりします。
近隣住民にとって歓迎出来ないというのは仕方のない事なのかもしれません。
一概に言えませんが、第三者にとってはこれらは少なからず「迷惑行為」にカテゴリされ、ルールを守っていてもはた迷惑な加害者の一員として括られてしまいます。
自分が直接的な恩恵を受けていない以上、あってもなくても構わないわけで、それで迷惑を被る以上、禁止に賛成すれど、反対する理由は無いという事になります。
ですから携わる者(バーベキューをする方々、喫煙者)が自分の権利を主張するならば、それを獲得出来るだけの行為を要求されます。
無くなっても構わないという人に、あった方が良いと、存在を認めさせるのは、実は大変難しい事です。
バーベキューで言えば、利用者が自分のゴミの持ち帰りのみならず、置き去りにされたゴミの処理を行い、また利用者同士でルール・マナーの徹底を行い、ルール違反者、マナー違反者の追放を行うなど、問題を利用者が解決すれば、禁止という流れを変えられるかもしれません。。
煙草もずいぶん喫煙の場を奪われているようですが、喫煙者自身が自浄作用を発揮しない限りは、今後も益々嫌煙活動は活性化し、やがては全面禁止という世の中も来るのかもしれません。
歩きタバコをしない事はもちろん、周囲に人が居る場合は喫煙をしない、禁煙スペースでは絶対喫煙しない、ポイ捨てをせず携帯灰皿を持ち歩く、ポイ捨てを見つければ注意し、吸い殻を見つければすすんでそれを拾う。
これくらいはしないと恐らくイメージが改善しないでしょう。
そんな面倒くさい!
吸い殻をぽいっと捨てるのがカッコ良いのである!
という意見もあるでしょう。
確かに昔は会社で、道端で、飲食店、どこでも喫煙していたものです。
駅のホームで吸い、吸い殻はそのまま線路に投げ入れていた時代がありました。
また煙草は不良やアウトローの象徴であり、煙草を取り出し、咥え、火をつけて、燻らせて、ポイっと捨てる…までの一連の動作と雰囲気がカッコイイのも確かです。
私は生まれてこの方一本も吸った事は無いのですが、あこがれだけは未だにあります。
死の間際には最初で最後の一本でも吸ってやろうと決めてます。
ですが社会が変わった以上、そして社会の流れが変わった以上、これは抗いがたい事なのです。
バーベキューはわかりませんが、恐らく煙草に対する厳しい状況は、今後強まる事はあっても弱まる事はないでしょう。
日本刀の全面禁止
まあ愛煙家でもなくBBQ同好会に所属しているわけでもないので、私自身はその事に関して主張したわけではありません。
古流武術として考えるべきはやはり日本刀についてです。
日本刀はどうでしょうか?
同じ懸念があるのではないでしょうか。
かつて日本刀受難の時代がありました。
現在も決して日本刀にとって恵まれた時代ではありませんが、それでもマシなほうです。
太平洋戦争後、GHQにより所持は禁止され、多くの日本刀が没収されました。
後に一部は返却されましたが、膨大な数の日本刀が切断破棄されたり、焼却後海中に投棄されたり、海外に流れてしまったそうです。
日本刀の存続自体危ぶまれるほどだったそうですが、それを撤回させるべく、日本刀は美術品として位置づけ実用品ではないという建前のもとに必死で日本刀存続にこぎつけたのです。
現在も日本刀はあくまで美術品であり、武術家が実用品として扱っているというグレーゾーンのようなものです。
美術品ですから、持ち運びには相応の理由と相応の運搬方法(すぐに使用できない状態)が必要なのですが、稽古は美術品の目的ではありません。
美術品なのですから、刀剣鑑賞目的で持ち出すのが本来という事になりましょう。
まあそのグレーゾーンがまさに、本音と建前の境界線なのでしょう。
ともかくこのようにかろうじてその存在を伝えてきた日本刀ですが、絶対安泰などという事はありません。
今とて決して日本刀にとって楽な時代ではありませんが、今後規制が強化されない保証はないのです。
これはあくまで鉄を用いた模造刀の話ですが、よど号ハイジャック事件では、犯人グループが鉄身の模造刀を研いで刃を付けて使用したそうです。
それがきっかけとなって鉄身の模造刀は全面禁止となり、現在のように合金製の刀身のみとなったのです。
一部の利用者の不心得…どころか、一つの事件がきっかけとなって、このような大規制が行われるというのは少なくありません。
もちろん大きな事件ではその与える影響も大きいので、世論の規制圧力が高まるのも当然と言えます。
そして現在も、模造刀でも真剣でも事件は起こっております。
包丁だって立派な武器になりますが、武器「にもなる」ものと、武器(美術品という事になっていますが)では周囲に与える恐怖も異なって来ますし、理屈より感情論が勝るものです。
マスメディアとて包丁より日本刀の方が注目を浴びるからと、大々的に報じる可能性もあります。
犯人が一般の方などならばまだしも、それが武藝の修業者となれば、武藝そのものも含めて、大きなダメージになりかねません。
日本刀が身近にあると、どうしてもそれが周囲にとっては脅威に感じるものであるという事を忘れてしまいます。
一般の方には模造刀と本身の区別もつきません。
包丁は見慣れ、扱い慣れていても、日本刀を目にし触れる機会などそうあるものではありません。
武術は基本的に闘争の手段ですから、流儀間などでもいざこざが起こる事も少なくありません。
しかし当たり前ですが、日本は法治国家であり、諍いを治める手段として決闘は禁じられております。
ましてやそういった際に日本刀を持ち出すなどあってはなりませんし、それを匂わす事すらもすべきではありません。
今後よど号ハイジャック事件のような大きな事件が起きた時に、また日本刀、ないしは模造刀の類が効果的に悪用されてしまったら、どのような規制論が巻き起こるのか…そしてそれを巻き返す事が出来るのか…。
想像も出来ません。
これが心配症の大げさな危惧に過ぎなければ何よりなのですが、最近話題になった3Dプリンターの問題もあります。
・日本で3Dプリンターでピストルを製造した男が逮捕―何で作ろうと銃は銃
http://jp.techcrunch.com/2014/05/09/20140508japanese-man-arrested-for-printing-his-own-revolvers/
御存知の通り3Dプリンターで銃を作成した方が逮捕されました。
これをきっかけにして3Dプリンターのユーザー登録や転売への許可制など、規制が検討されていると報じられました。
古屋圭司・国家公安委員長は5月9日、閣議後の記者会見で、3Dプリンターで製造された拳銃が初摘発された事件に触れて「新たな形態の犯罪。現行法では不十分」として、再発防止に向けて法整備を検討する考えを示した。
特にデジタル関連の情報に敏感なネットでは、この事に関して大きな議論が巻き起こりました。
この事に関して、是非を論じるつもりはありませんが、こういった事が起きた時、社会に広がった「不安感」を取り除く事が、政治の役割です。
また政治機能がその役目を果たしているというPR効果も期待出来ます。
世論とはそういうものなのではないでしょうか。
もし日本刀で事件が起こり、日本刀の規制論が巻き起こったとしましょう。
そういった時にこそ、武術が以下にして潔癖にして高潔な姿勢で日本刀と向き合ってきたのか、取り組んできたかが試され、また世間がそれをどれほど認めて来たのかが試されるのです。
最悪の場合、武術などでの全面使用禁止もありうると私は考えておりますし、最悪の事態を想定しなければ、実際に怒った際には到底太刀打ち出来ず、手遅れという事になってしまうのではないでしょうか。
武術と人間性
武道が人間性に与える影響について明治17年の文部省の調査があります。
「害若しくは不便とする方」として九項目が上げられていますがその中には「(四)精神激し易く輙もすれば粗暴の気風を養ふべく(五)争闘の念志を盛にし徒らに勝を制せんとの風を成しやすし」というものがあります。
「怒りやすく粗暴な人間になってしまう」
「闘争心を過剰に盛んにして、ひたすらに勝ちを得ようとする意識になりやすい」
「武道で人間性を養う・高める」というお題目は、実態と乖離していると指摘されて久しいのですが、既に明治期には一面としての問題点がはっきり示唆、指摘されているのです。
ですから「武術を学ぶと立派なに人間になる」のではなく「武術を学ぶ者は立派な人間性を養い、確立しなければならない」と考えなければなりません。
すぐ激高する粗暴な人間性と、過剰な闘争心を背景に、日本刀を振り回していれば、それは事件に繋がります。
武道は人間性の向上など訴えているのに対して、武術は道ではなく、戦闘技術の粋であって、人間性は無関係である。
と主張される人もいらっしゃいます。
確かに人間性の向上は、基本的に武術の本義とは異なるものです。
天心流も基本スタンスとしては、人間性を磨くのが武術の修業目的ではない事をはっきりと示しております。
往時の武士が皆一様に人間的・社会的に立派な人物であったわけではないでしょうが、武士としてのあり方、武士としての道徳観を学んだのは訓育によるものです。
幼少時から四書五経を学び、そして家族などからも薫陶を受けた往時と異なり、現代の一般感覚で刀を振るならばそれは凶刃になる危険性が高いのです。
仁徳を技法未熟の言い訳には出来ませんが、強さを仁徳の不足の免罪符にする事も許されないのです。
もし「武術は人間性と関係ない」と論じれば、それならなおさら危険なので規制が必要という事になるのではないでしょうか。
実際に揉め事が起こって日本刀をちらつかせる、血闘を匂わせるような話を武術の世界では耳にします。
武士としての誇り、流儀の矜持を持つ事は大いに結構な事ですし、また磨いた心技体は本物だという自負も斬り合いすらも厭わぬ気概も否定出来るものではありません。
ですがそれはあくまでも実際に行おうとしなければです。
国法を軽んじて行われるそれは、ただの蛮勇であり違法行為に過ぎません。
時代が異なり、その社会的道徳規範も変化しますが、だからこそ再び武藝と日本刀とのあり方を、流儀として示していかなければなりません。
身内の僅かな人数しか居なかった頃と比べれば、大変大所帯になってまいりました。
自らが愛する武藝の矩としては武家文化の象徴とも言える日本刀がある事の自覚。
これは本身を持っているか否かの問題ではありません。
そういった心のあり方を含めて、門人一人ひとりが向き合っていく事を課題として、わずかづつでは御座いますが取り組んでおります。
天心流にとっての日本刀
これから記すのはあくまで天心流が定義する日本刀についてです。
よく日本刀とは「武士の魂」であると言われます。
天心流でも同様です。
それはただ大事な物などという意味ではありません。
まず前提として、日本刀は武具です。
武士が使いこなすべき武器であり、ただ大切にするだけでは「おじさんのかさ」と同じように宝の持ち腐れになります。
いざとなればそれを使わなければ意味がありませんし、使えるよう訓練も積まなければなりません。
ただ持っているだけでは意味がありません。
(あくまで往時の考えに則ったもので、現代ではいざとなっても使ってはいけません)
そして大事な事として、日本刀は吾の占有物ではないという考え方です。
これはあくまでも一時的にお預かりする授かりしているものなのです。
武士は戦を治め、主君を守り、家を繁栄させ、国を守るための存在であり、日本刀はその象徴的武具なのです。
三種の神器の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)は諸刃の直剣であり、日本刀と形状は異なりますが、国を守る武力の役目を象徴するものです。
西洋圏でも剣は神聖視されてきたものであり、鉄が貴重であったなどももちろん関係すると思いますが、そもそも昔の権力者は、自らの権力を神々に付与されたものであると考えました。
武力も同様です。
ですから武具はまさしく神々の力を具現化した授かり物として大切にしてきたのです。
天心流では通常は刀礼を致しません。
ですが神前での儀式では三方や八足台などあればその上に、無い場合ですと床には置けませんので、両手にて掲げて刀礼致します。
また神社での稽古などでは、やはり稽古前に両手にて掲げて刀礼を致します。
これは日の本の神々より授かりました刀にて、日々武藝に励み、身命を賭して、往時であれば主君や家や民、そして国をお守りする事を誓い祈るものです。
現在ならば国家、天皇陛下、家族、大切な人々、郷土、…順番も内容も思想によって差異はあるのでしょうが、各々思いを込めて礼を行うものと教えております。
私心を以って刀を振るわず、公心を以って刀を振るうのです。
公心とはあまり耳慣れませんが、福沢諭吉翁の著作「福翁百話」にも出てくる言葉です。
私心が自らの私利私欲において起こるものであれば、公心とは公共の福祉に基づいて起こる働きを言います。
人生に公心あり私心あり。
例えば古言に己(おの)れの欲せざる所、人に施す勿(なか)れと云うは、不正不義の行わるゝを好まざるの意にして、万人は万人誰(た)れも之(これ)を好む者はあるべからず。
即(すなわ)ち公心なれども、唯自身の利害に遮(さえぎ)られて、良からぬことゝは知りながら時として正義を破ることあり。
即ち私心の働く所なり。
その極端を云えば、人の物を盗む者にても盗賊公行(こうこう)して自分の物を盗まるゝを好まず、他人を欺きながらも自分の欺かるゝは甚(はなは)だ不愉快なりと云う。
内には造悪(ぞうあく)の念自(みず)から禁ずる能(あた)わずして、外には広く悪事の行われざらんことを欲す。
人間世界は恰もこの公私両心の戦場にして、苟も(いやしく)万衆の私心を高尚に進めてその公心と符合するの境遇に至らざる限りは、公心の力を以(もつ)て私心を制するの法なかるべからず。
尚(な)お詳に(つまびらか)云えば、社会全般の人心に一点の私慾なく、釈迦、孔子、耶蘇(ヤソ)の叢淵(そうえん)と為(な)りて所謂(いわゆる)黄金世界を見るまでは、人為の法律を以て人間の言行を抑制せざるべからず。
即ち政府なるものゝ必要なる所以(ゆえん)にして、その政府は単に良民の為(た)めに禍(わざわい)を防ぐのみに非(あら)ず、造悪者も亦(また)共に必要を感ずる所のものなり。[amazon_link asins=’4043073054′ template=’ProductCarousel’ store=’tenshinryu01-22′ marketplace=’JP’ link_id=’5eaa2682-d768-11e8-9c3e-5ba60e9cacb8′]
これが天心流にとっての日本刀であり、天心流にとっての武士のあり方なのです。
願わくば一隅を照らす存在に
天心流がこれを体現できているかと申しますと、それは門人だけでなく、私も、また中村天心先生も出来ておりません。
日々、これを心に刻み、言動、態度、所作を整える。
闘争心を煽る面を持つ中で、天秤を保つ努力は永遠の努力を要するものです。
流儀によっては稽古毎に、あるいは帯刀する毎に刀礼を行うそうですが、そういった気持ちを日々忘れぬように戒めるためなのかもしれません。
(他流では刀礼をどのように指導されているかわからないので、推測に過ぎません)
「強ければいいんだよ!」という主張があります。
確かにそれは一つの真理かもしれませんが、本当はそう表現すべきものではありません。
武士は強くあらねばなりません。
そして正しく強くなければなりません。
強いばかりでその使い道を誤れば、それは巨悪となります。
そういった巨悪を摘む事に、武士の、そして柳生宗矩公の教える活人の剣があるのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ曰く、「悪を罰しない者は悪をなせと命じているのだ」。
これは社会における一つの真理であり、また同時に、物事に対する人間の気質を示しているとも言えます。
ですが冒頭から指摘しております通り、自分は善良であるという事は、社会からの免罪符にはなりえません。
自分さえ善ければ、世間はわかってくれる…ものではないのです。
古武術、または武道、そういった全体をひっくるめて啓蒙を進めていかなければ、自流だけ善ければそれで良しという問題ではありません。
かといって当流の主張は正しいと、他流に意見を述べるつもりもありません。
流儀によって各々考え方は異なる部分もあるでしょうし、むしろそんな事はとっくに承知で「天心流などよりはるかに徹底している!」という流儀も多数あるかと思います。
天心流としてのあるべき姿を日々突き詰め、一般の方々からもその姿勢を認めて頂ける程となれば、やがてはそれが武術界全体にも、良い影響を与える事もあるのではないかと願っておりますし、そうあらねばと志すものであります。
もちろん無名の弱小流儀ですから、その影響力など微々たるものに過ぎないかもしれません。
現状ではむしろ志高くある流儀の方々から教えていただく機会が多いのも事実です。
志は高く、現実は低く…となるかもしれませんが、天心流が武術界の一隅を照らす存在となれれば何よりと思っております。