跨がない文化

海外はどうなのか分かりませんが、日本には「跨がない文化」というものが存在します。
これは床座(とこざ)文化だからこそなのかもしれません。

明治以降、欧米のスタイルとの対比という事で、欧米の椅子を中心としたスタイルを椅子座(いすざ)と称し、それに対して床に直接座るスタイルを床座と称して分類するようになりました。

「片付けられない」というのが一種の社会問題のように取り沙汰され、断捨離(だんしゃり)ブームに象徴される片付けノウハウも流行しています。
一昔前に、「捨てる技術」というのも流行りましたが、いずれにせよこれらの問題は、物を大切にする日本人の「もったいない」という意識と、床空間に物を無制限に放置出来てしまう床座の文化、そしてこの物質文明の恩恵という三つが重なったからこそ起きている事なのかもしれません。

片付けのコツは、捨てる事と、床に物を置かない事。
これを守る事が出来れば、必然的に最低限の領域が守られるため、
部屋が掃除され、整理されていると、何を行うにも捗り、また無駄な時間を使う必要がありません。
よく手の届くところに物を置いておく…という片付けられない人々の言い訳がありますが、実際は積もり積もった物の下に入り込み、必要なものを必要な時に取り出す事が出来ず、結果大変な時間を消耗しているのです。

椅子座の場合は土足で歩くスペースという事があり、あまり床の上に物を置くという習慣がないために、床座に比べて散らかりにくいようです。

古流武術を学ぶ際、まず最初に「刀を跨がない」と教わります。
刀は「武士の魂」とも呼ばれるものであり、往時であらば刀に命を預けるのが武士です。
そういった大切なものを跨がないというのは、安全面と精神性の両面から生じた自然の作法です。

ですがこれは刀に限った事ではありません。
刀を模した木太刀(木剣)、丸太刀(袋竹刀)は勿論の事、武具、荷物、そして人を跨いではいけないという事を流儀では教えますが、これは古流武術だから守る…というようなものではなく、日本文化としての常識でした。

昔は家庭でも同様に人・物を跨がぬように厳しく躾を受けました。
昨今では、人も物も当然の如く跨ぐ人が非常に増えておりますし、人の靴を当然の如く踏みつけて自分の靴を履くという姿も散見します。
狭い住宅事情故に仕方ない事なのかもしれませんが、仕方なく作法を破るのと、作法をまるで知らず、まるで守らないのとでは大きく異なります。

武家と整理整頓について

跨がない意識がありますと、跨ぐ可能性を減らすため、物を床に置きっぱなしにさせないという効果があります。
出したら片付ける」「使ったらしまう」という片付けの鉄則は、PCのデスクトップを見てもわかります。
片付けないと、いつ入れたのか、何なのかよくわからないデータやフリーソフトがデスクトップを埋めてしまいます。

室内土足の椅子座文化でしたら、床はキレイとは言い難く、腰を下ろさないので物も床に置くことが習慣化し難いようです。
(室内履きを別に使うという事もあるようですが)
床座文化は床に腰を下ろすため、床は綺麗ですから床に物を置きがちになり、結果散らかりやすいものです。

そういう意味では整理整頓の教えを内在しているのかもしれません。
特に常常在戦場の精神を尊ぶ武家に於いて、部屋の不始末で急場に差支えが出るなど、許される事ではありません。
現在でも軍隊では荷物の整理整頓と装備の手入れを徹底して教育されます。
また何かの時に、足元不如意にて遅れをとる等という事も許されない事なのです。
武家における家はただの住まいではなく、城であり、軍事施設という側面を持つのです。

気配り・心配り

跨がない事には。物を大切にするという教えがあります。
これは精神的な話にだけではありません。
物を跨げば当然踏む危険性が増大します。
人生で物を踏み壊した経験の無い人は少ないと思いますが、物質文明絶頂の現代と比較しますと、昔は物が貴重な時代でしたから、必然的に破損に対する注意は現代とは比較にならないものがありました。

畳のへりを踏まないというのも、複数の理由がありますが、一つにへりをすり減らさないようにという心配りがあります。

こういった「智慧」を伴う貴重な文化も今や風前の灯火かもしれません。
そのように教えられずに育てば、当然平気で跨ぐ人間に育ちます。

稽古や演武でも、「刀を踏むな」と指導しても、身体が勝手に刀も荷物も跨いでしまいます。
普段の意識がそのまま出るものですから、これを直すのは中々難しものです。

同時にまた『置く側』としての「跨がれないように置く」という注意も不足しています。
荷物を端に寄せたり、一つにまとめて置く。
人様の邪魔になるという配慮も勿論ありますが、同時に自分の物を守るという事もこれは含まれています。

作法とは即ち配慮です。
配慮が形に現れるのが作法であり、その形から気配りを感じ取るものなのです。
心が伴えば形は自ずと定まるというのは真実ですが、絶対ではありません。
心で話が済むのでしたら、世にルールもマナーも不要なはずなのです。
心が伴わなければ形は定まらず、形が定まらなければ心は表れない。
だからこそ作法は気配りであり、心配りなのです。

こういった何気ない教えを、例え時代錯誤と言われようとも次代に継承していく事が、古流武術の一つの役目と考えております。

床座回帰

最近は欧米にも床座を取り入れる動きが広がっているそうです。
これを単純に日本文化が世界を席巻している!と手放しで喜んで良いかは分かりません。
床座文化は何も日本だけのものではありません。
いずれの文化圏でも元々は生活スタイルは床座からはじまっているので、床座回帰と言っても良いのではないでしょうか。

履物を脱いで、自由に坐し、横たわる事も出来る。
心身がDNAレベルでリラックスするのかもしれません。

そんな見直しの中で、床座文化において生み出された種々の心得作法も見つめなおしていく事で求められるに違いありません。

日本の象徴のように考えられる正座も、江戸時代までは畏まり、端坐等と称される坐法でした。
江戸時代に徐々に浸透して、明治以降ではその名称すら正座と変わり、これが日本の坐法のスタンダードに位置づけられました。
確かに武家文化においても、この正座のスタイルは重要視されてきました。
天心流では膝を大きく開いて坐するスタイルを「扇坐」或いは「男坐り」と称して用いております。
しかし日本の「坐り文化」を考えますと、胡坐(こざ・あぐら)、片膝立・立膝・折敷楽坐などの坐法も正式な場で用いられて来ました。
そしてそれぞれに応じた礼法も整理されていました。

また床座文化と武家文化の象徴として、刀を置くという形式もありました。
天心流ではこれを置き刀(おきがたな)と称しまして、置き方の作法とそこからの技法を多数伝えております。

床座に回帰し、武家の作法に回帰し、そして武家の兵法に至る。
そのような精神で天心流では稽古しております。

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