武の道と人間性について

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『腕前と伝位、段位はあまり直結しない』
『人間性と腕前は関係ない』

これは武術、武道の界隈で度々話題になるトピックです。

実際には、明治期の義務教育への武道採用における検討の段階(明治17年)で精神面において「粗暴になる」「ひたすら勝とうとする」「競争に執着して悪さをする」という害、若しくは不便とする旨が挙げられ見送られた(その後、大正二年に軍国主義の影響を受ける形で義務教育に採用される)経緯があります。

武道では長年にわたって、精神的修養の効果を謳い文句として来ましたが、その後の研究でも多くの場合、精神性における有用性は否定されているようです。

根本の武術、武道の修業が人間性に及ぼす影響にマイナスがある、またはその腕前と精神性に相関関係は生じないのは事実かもしてません。
しかし人間性に問題の大きな反社会的な人に、流儀の教えを相伝すべきかどうかというと、普通に考えればそうすべきではありません。
もちろんどのように考えるかは各流の師範に委ねられるべき性質のものです。
ですがただ単に、個人としての強さを流儀における大事とするのであれば、そもそも相伝も免許も必要ありません。
その流儀が相伝、免許授けるということは、その人物が流儀の伝統と教えと技、看板を背負って立つに相応しいと認めるからこそそれを授けるというのが理想論です。
いかに実力があっても、むしろ実力があればこそ、精神的に未成熟で、いたずらに諍いを起こしてしまえば、それこそ流儀の沽券に関わる問題となります。
そうした人物が流儀を継承して、果たして流儀を守(も)り立てるかというと、多くの場合は否でしょうし、そうした人物が弟子を育成出来るのかというのも疑問が生じます。
もし免許者、相伝者が流儀を出て、独立して流儀を名乗ったとして、いわばお墨付きを与えたことになります。
暗黙のうちの保証人のようなものです。
だから如何に強く腕前が立とうとも、相応の人格を伴わない限りは、高位の伝位、高段を授けないという選択がなされることが多いと言えます。
であるならば、必然的に高位の伝位者、高段者は人間的に立派であるべきと考えられます。

武士階級があり、武具や空手での闘争が職分として必須であった時代であれば、時に腕前は人間性よりも重視されることはあったでしょうが、現代において腕前しか取り柄がなく、精神的に未熟で反社会的な武術家、武道家に社会的価値は見出されません。
そうした存在は、却って武術、武道文化を衰退させるだけのものとなります。

明治時代から懸念されていた通り、戦闘の術を学ぶということは人間の持つ凶暴性を助長することになりかねません。
そして時に人間の暴力性は魅力とも捉えられます。
現代においてワルというのが「イキリ」などと揶揄され、ネガティブな印象へ変しつつありますが、しかしそうした「ワルさ」が強さの象徴として一定の憧憬を得ているのもまた事実ですし、それ自体は否定するものでもありません。
ただ武術、武道の文化的側面、特に衰退しつつあるレッドデータカルチャーとしては、そうした側面を否定して、武技と身体を磨くだけでなく、同時に人格を練磨して人々を導くという活人剣の文化として王道を歩まなければならないと、天心流では考えます。

また多くの人々が集い、健全な稽古を通じて、伝統を形骸化させること無く継承していくという意味においても、活人剣として流儀を知らしめ、運営していくものと考えています。
そうは言っても、なにか想像上の聖人君子を輩出したいというわけでもなく、ごく社会的に真っ当な範囲での話でしかありません。
稽古においては時代錯誤に、常識破りに励みつつ、同時に人生としては国法を守り、モラルに配慮した社会性を身に付けるという至極当たり前なことです。

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