【鍬海 政雲】
武術界隈あるあるとして、時々次のような疑問を耳にします。
「今伝わっているものと、流祖の技法は本当に同じなのだろうか」
そうした素朴な疑問が生じるのは至極当然なことです。
それはまた探究心の現れであり、学術的な意味も含めて、否定されるものではありません。
しかしそれ以上の価値は存在しません。
人から人に、直伝によって継承されてきた武藝は言わば伝言ゲームのようなものです。
時には語れる言葉が変化する場合もありますし、解釈が変更されることも起こり得ます。
ですが武藝では、その変化を需要するものです。
それは余人が行う伝言ゲームではありません。
免許、皆伝を授けるという事は、継承者に対して、あらゆる変更を含めて流儀を託した証だからです。
中には昔の記録と比較して内容が異なるから、「伝承が間違っている」「失伝している」と断言する人もいます。
しかしそもそも限られた現存する記録で断言するのは、あまりに危うい行為です。記録が間違って可能性、複数の方法などがある可能性、またそのまま継承しつつ表向きに別法を公開している場合など、無数の可能性が存在します。
また時に型や教えが変化したとしても、それは水を注ぐ器のようなもので、本質としてそこに注がれた水は変化することはありません。また蝋燭から蝋燭に火を受け継ぐようなものです。蝋燭は変わっても、受け継がれる灯火は変わらず周囲を照らし続けます。
しかし流儀が途絶えたり、また学んだ内容に疑念を抱き信じきれない者にとって、補完を求めてルーツを探ろうとしてしまいます。
そうした行為は一概に否定出来ないものではありますが、同時に、もっと先鋭的に己の技倆を高めようとすることから始めるべきだと言えます。
これは私自身の自戒からの言葉です。
入門当初は、そもそも門人にそれだけの段階の弟子が居なかったこと、そして間違ったことを伝えたくないということから、天心先生はかなり限定的に指導を行っていました。
今でこそ多少の不安があっても、思い出した内容を指導してくださるようになりましたが、昔は技法など極めて断片的とも言えるものでした。
ですから天心流の原初と言える新陰流とはどういったものなのか?という疑問で様々に見聞きしたものでした。
結果、どうにもなりませんでした。
如何に源流を同じとしていたり、また古い記録であったにせよ、流儀を学ぶということについて、天心先生から教わった技法を稽古すること以上に得られるものは、一つとしてありませんでした。
なぜならそれは天心流ではないからです。
結局、疑問に対する回答は、いつも稽古から導き出されるものでした。
もちろん、古武術の知識、雑学として知っておいて損はありません。
俯瞰的に天心流を見て、客観視することにも寄与するという意味では意義深いと言えます。
しかしそれ以上では決してありません。
比較言語学が言語の変遷、祖語、派生言語との影響などを研究するように、古武術でもそうした研究は日本が誇る伝統文化の研究として極めて意義深いものです。
ですが継承者にとって何より重要なのは、自流に研鑽すること以外にありません。
ここでいう継承者とは、免許者、皆伝者、相伝者ではなく、すべての修行者です。
修行は迷いとの戦いです。
古人が己の迷離の末に導き出した道ですが、往時のように学ぶことは出来ず、また文化的バックボーンが異なる現代人にとって、過去とは異なる道迷いが生ずるのは必然的なことで、避けられない問題です。
それでもなお、道を信じて歩み続けるからこそ、はじめて視えてくるものがあります。
天心流には多数の技法がありますが、同時になんだこりゃというような教えも多々あります。
天心先生は教わったものがすべて!という実直を通り越して愚直と呼べる人なのである意味迷いがありません。
しかし私達にはたくさんの疑問が生じます。
面白い実例があります。
坐法の大刀血振いの際に、鞘を持った左手で右手首を打ちますが、これを強く打つのはとても難しいです。
稽古で打ちまくっていたら、何度も内出血しました。
苦労している様子は天心先生も何度も見ているはずですが、入門から十年ちょっとほどの時に直接聞いてみたところ、「そんなことはない!」とご自身で試された結果、初めて気付いたようで、強く打てず四苦八苦して投げ出していました。
時には、天心先生の記憶が曖昧な技法などこちらが試行錯誤していると、「ごちゃごちゃ言うなら失伝させろ!」と伝承者として最悪なことを言います。
(疑問にうまく答えられなかったり、うまく技法が出来ない時の天心先生の常套文句です)
そんな苦心しつつ稽古に励んでいるわけですが、とにかく一にも二にも稽古あるのみなのです。
伝承内容をいちいち疑っていたら、何も身につきませんし、理解出来るはずのことも理解出来ず、独自解釈で捻じ曲げた自己流が出来るだけです。
自己流を作りたいのならばそれは良いのですが、少なくとも免許者、相伝者にとっては、ボタンを大きく掛け違った歪な状態が一目瞭然です。
幸いなことに、現代では武士としてのお役目はありません。
刀槍を用いて命のやり取りをする必要はありません。
それほどの覚悟があるのは大いに結構なことですが、それを積極的に武力として用いたいというのは、反社会的行為です。
焦ることもなく、流儀や技法や教えと向き合って、じっくりと得心が行くまで稽古に励むことが出来ますし、失敗しても、下手くそでも誰が文句を言えましょう?
そういうある意味でのおおらかさが今求められています。