つもり稽古からの脱却

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教えているのではなく伝えている

こころの象: 最後の達人初見良昭師に観る日本の象

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これは世界的に著名な武術家であり、最後の忍者とも称されます達人 初見 良昭(はつみ まさあき)先生を、日野武道研究所を主宰しフリー・ジャズドラマーから武術研究家となった異色の武術家 日野 晃先生の目を通して描いた快作です。
その中で次のよう言葉があります。

『教えているのではなく伝えている』

教えているも伝えているも一見すると同じ事のように感じます。
実際、字引を紐解きましても重複的表現も散見します。
ですがそれぞれの特徴で比較しますと次のように意味を分化出来ます。

教えるとは、 知識・学問・技能などを相手に身につけさせるよう情報を与え、正しく導き、育てる事。
伝えるとは、受け継いだものを次の代に授け渡す事。

武藝における「伝える」とはあくまでも一方的な行為です。
伝書巻物、また現代で言えば解説テキストや映像など、物理的に譲り渡す事は容易です。
そのものはそのものです。
ですが実伝としての武藝そのものを授ける場合には、本当にそれが伝わったかどうか、確かめるのは困難な事です。
竹刀剣術が中心となった時代には、質を問わずにひと通り伝えればそれで目録、免許を与えるという形式を採っている場合もあったようです。
型稽古が軽視されたとも言えますが、同時にそれも古流武術の持つ側面の一つとも言えます。

天心流が門戸を閉ざし、縁故者のみ入門を許されていた時代、稽古時間も余り取れず、基本的な指導をほとんど出来ませんでした。
当時の門人が出稽古先の先生に「基本を教わっていないのか」と問われた事があるそうです。
確かにそのような指導は当時はありませんでした。
しかしその先生は指導の問題を指摘するのではなく、次のように続けました。
教われないのならば、師の姿を追って自ら学ぶものだ」と。

今は時間的余裕もありますし、段階的に指導する事が出来るようになりました。
ですが状況はどうあれ、自ら修する気概、気組みがなくてはなりません。
夏目漱石の虞美人草に次のようなセリフがあります。

やろうと思わねば横に寝た箸を縦にすることも出来ぬ

箸ですら気組みがなければ動かせないのですから、武藝を修得するならば「教えてもらう」という受け身の姿勢ではいけないのです。

つもり稽古

「教えているのではなく伝えている」
天心流においてもそれは同様、師が弟子と稽古するのではなく、稽古は門人の各々がすべきものという考えがありました。、
師はあくまでも指南をするものなのです。

ですから本来、稽古場ではなく指南伝授の場なのです。
そのことについては過去に下記の「指南所と稽古場について」で記しました。

・指南所と稽古場について
http://tenshinryu.net/?p=35

伝えようと如何に師が頑張りましても、受け取り手がそれを拒絶してしまえば伝わる事はありません。
アンテナを確りと立てる必要があるのです。
如何に手取り足取り、説明も微に入り細を穿つように行いましても、受け手がキャッチすることが出来なければ、それは労多くして功少なしとなってしまいます。
縁なき衆生は度し難き。
また馬の耳に念仏。

西洋でも古くから(少なくとも15世紀)の諺で「牛がのどが渇いていないなら、牛を水辺につれて行っても無駄だ」というものもあります。
今では「馬(或いはロバ)を水辺に連れていく事は出来るが、水を飲ませる事は出来ない」というような文章で使われているようです。

もちろんやる気がないわけではなく、気づかないうちに人は「見ざる聞かざる伝わらざる」となっているのです。

固定概念という視えざる鎖に囚われている事を伝えるためにいずれの芸事でも、「素直な童子に戻ったつもりで」「生まれたての赤子の心で」というような初心の心構えが説かれます。
過去の経験や知識が却って認識を歪め、理解を歪め、動きを歪める事は少なくありません。

まっすぐにと言われても曲がり、床と水平にと指摘してもそうならない。
もちろんご本人はわざとやっているわけではありません。

 聴いている「つもり」
見ている「つもり」
わかった「つもり」
出来ている「つもり」
やっている「つもり」

こういった「つもり」の集積した「つもり稽古」から脱却する。
これが一つの修業とも言えます。

怖いのはつもりによる自己正当化です。
初学者が言われたとおり出来ないのは当然ですし、初学者でなくとも、上達する上で指導を受けるのですから、その中で注意を受けることは多くありますし、そのために指導を受けます。
しかし指導者が動きが違っていると指摘しても、「やっているつもり」、「出来ているつもり」な自己正当化しようとする自我が、聞く耳をもたせません。
「解っている」「やってる」「出来ている」と、聞き流してしまうのです。
もうおわかりでしょう。
すべての言葉に「つもり」がつくのです。

各々に自らのアンテナを立てていく。
その努力には、持っているアンテナを一度解体する事も大事になります。

脱力の事

例えば「力を入れないと早く動けない。」というのは一種の常識的な概念です。
脱力は大事なのはわかるけど、それでも頑張らないと素早く刀を振れない。
実際、完全に力を抜けば、刀を持つことも出来ません。
正確な表現をするならば、刀を振る運動に最適な力を用いるという所ですが、そんな事は容易ではありません。
ですから力を否定するのです。
脱力したつもりでも、実は力みはまったく抜けておらず、相当なロスが生じていても自分では中々気づけません。
ブレーキをかけつつアクセルを踏み込むような、あまり合理的ではない運動を固定観念が邪魔をしてしまいます。
自分なりの脱力が上達を阻害するのです。

天心流では柔手(やわらで=柔術)における技以前の初学の教えとして、脱力の大事と力みの弊害を理解させるための稽古があります。
まず最大限全身を力ませて立ち、それを両脇から二名で持ち上げてもらいます。
すると簡単に持ち上がります。
今度は全身を出来るだけ脱力させます。
そして同じように両脇二名に持ち上げて貰いますが、立っていられる限界まで脱力させる程にしますと、持ち上げようとする力が身体全体に伝わらず、持ち上げる事は出来ません。

力みは関節をロックさせて、一つの荷物にしてしまいます。
脱力すればロックは解除されて、バラバラなパーツとして自在に働きやすくなりますから、持ちにくくなるという次第です。

ただバラバラに動くだけでは、動きの整合性は生じませんから、当然型稽古を通して養うのですが、そのためにはまず力の有効性を捨て去る事が大事なのです。

力んでも言葉を操れない木太刀(木刀)や刀は文句を言いません。
上達すれば道具と語り合うという境地にも至りましょうが、それは先々の話です。
柔の稽古は対人で直接触れ合ってその力みを感じる事が出来ます。

枝の事と称しまして手を持って貰うという稽古もあります。
これも技以前の事で、如何に強く持たれても、こちらが力を抜けば動かす事が出来ます。
ところがどうにか腕を動かそうと、力んでしまうと、動きは出だしで察知されて、止められて思うように動かせません。
力みは場合によっては大きな力を生む土台となります。
ですが対人の場合は、大きな力よりも察知されにくい小さな力を用いた方が有効な場合が多いのです。
まして刀の世界では切っ先三寸(9cm)という言葉があります。
それだけ入れば四肢であれば皮膚も肉も裂けてしまいます。筋が切れれば動かせませんし、出血も甚だしく戦闘継続が難しくなります。
骨まで断つ必要はないのです。

つもりつもらせ

つもりを正す心づもりは修業者自身の心がけとしてとても大事です。
同時につもりを正すのは師の役割です。

この両輪があってはじめて上達が成ります。
如何に上達しても、つもりは抜けません。
つもりを自覚し、つもりを脱却して、次のつもりに至る。
こうしてつもりをつもらせ上達していくものなのでしょう。

どのような達人であっても、師は弟子と比較して出来ているに過ぎません。
修業を放棄すれば、そこが到達地点になります。

初学には多くの工夫によって、学ぶ前の慢心を戒めております。
学ぶ前から既に人は無意識的に慢心しているのですから、学べばまた慢心が生じます。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
謙虚だから垂れるのではなく、上達者は慢心が退歩を生む最大の敵である事を識っています。
慢心に溺れ、己の修業を捨て、後輩を見下して退歩し、やがて抜かれ、プライドを傷つけられ、辞めていく。
そういう姿を多く見てきたからこそ、慢心の恐怖を識っているのです。

慢心しない人間は居ないからこそ、常に己の慢心を諌め戒める。
上になればなるほど諫言してくれる人は少なくなります。
諌めてくれる人が居る間に、如何にそのことに気付き、自らを上達させるコツを得るか。

そこに至れば伝える者に頼らずとも、気付き学び得るものがあります。

指導者のつもり

指導においても「つもり」は往々にしてあります。

 教えている「つもり」
伝えた「つもり」

「前にも教えた」「今言ったばかりだ」とは指導する上でつい言ってしまう事です。
それは受け手への戒めの言葉なので、当然注意すべき部分ではあります。
ですが同時に伝えたつもり、教えたつもりで実は伝わっていない事を示しています。
指導者は自らの修業も忘れてはいけませんが、同時に自らの指導法についても常に省みなければなりません。

易経(えききょう)には以下の言葉があります。

書不尽言 言不尽意」(書は言を尽くさず 言は意を尽くさず)

言葉も文字もその意図を完全に伝えきる事は出来ません。
まして精妙を極める武術の奥義(おくぎ)を伝える事は容易な事ではありません。
易経では「それ故に聖人は易占を用いて民を導き、不思議な力を発揮した」という内容が続くのですが、仏教で言えばやはり伝えるべきは「拈華微笑(ねんげみしょう)」になるでしょうか。

拈華微笑とは、お釈迦様が説法を聴くため霊鷲山に集まった弟子たちの前で、ただ一本の華を捻って見せました。
弟子たちは意味がわからず動揺する中で、十大弟子の一人であるマハーカッサパだけがこれを視て微笑を浮かべたのです。

禅問答で有名な無関門(中国宋代に無門慧開によって編集された公案集)の「世尊拈花」には以下のようにあります。

世尊昔在靈山會上、拈花示衆
是時衆皆黙然、惟迦葉尊者破顔微笑

お釈迦様は霊鷲山での説法で、弟子たちの前で華を見せたのですが、弟子たちは意味がわからずに黙っていました。
その中でただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけはそれをみて微笑んだのです。

さて、その微笑に大してお釈迦様どうしたのでしょうか?
なに薄ら笑い浮かべてんだこのボケ!!仏の顔も三度までじゃあああ!
とお釈迦様は激怒し、その怒りで霊鷲山は大噴火を起こしたそうです。

というのはもちろん嘘です。「世尊拈花」には以下のように続きます。

 世尊云、吾有正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、付囑摩訶迦葉

ここで個別の用語の解説を加えますと、益々長くなりますので省略しますが、要するに「言葉にも文字にも出来ない教えのすべてを摩訶迦葉に伝授する」と言ったそうです。
これによって、仏教の真理は教外別伝(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもんじ)・以心伝心(いしんでんしん)という事が言われるのです。
このやりとりを仏教では拈華微笑(ねんげみしょう)と称しております。

無関門ではこれに続いて、そんな特定の人にしか伝えられないのはどうなのか?と疑問を呈します。
民衆を救うと言いつつ、そのように言葉を濁して誤魔化しているようなものは、羊の頭と言って、犬の肉を売るようなもので詐欺ではないかと。
ここから羊頭狗肉(ようとうくにく)という四文字熟語も生まれました。

実際、この拈華微笑というエピソードは後世に作られた物語のようですが、色々考えさせられる逸話です。

これは「お釈迦様ですら教えたつもりでしかないではないか」という痛烈な皮肉が込められていると同時に、では伝授とは何を伝授しているのか?どう伝授すべきなのか?という事を考えるべき公案なのです。

指導者は神様ではありません。
かのお釈迦様ですらすべての弟子を悟らせる事は叶いません、
無理に説いて悟らせれば誤解を生み、野狐禅(やこぜん)を生み出す事になります。
この野狐禅とは同じ無関門にある話で、一言で言えば「悟っていない者が、悟りを得たように勘違いし、自惚れる事」です。

どこまで言ってもつもりにしかならないこの難しさ。
それ故に互いにつもりつもらせていくしかないのでしょう。
結果、拈華微笑のように、華を捻れば通じ合う、唯授一人といくような人も出るかもしれませんし、すべてが無理で優れた門弟が一致協力して法脈を絶やさないでいてくれるかもしれません。

当流では代々の指南方法をないがしろにせず、それはそのまま出来るだけ残し守り伝えつつ、同時に時代の即して柔軟に指導する事も試みていきたいと考えております。




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