将几と『将の位』について

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(当記事は2013年のブログの記事を加筆修正したものです)

古流の武術、特に古いものは伝承内容が多岐にわたる場合が多いとされます。
後代なると、各流儀の分化、専門化(剣術のみ教える。居合のみ教える。弓のみ教える。薙刀のみ教える…というような。)が進みますが、天心流ではそうした影響を受けなかったため、非常に多くの教えを伝承しており、伝承を難しくさせています。
しかしせっかくここまで伝わったものですから、その難しさを含めて伝承保存の楽しさとして、今後も継承していく所存でおります。

さて天心流に伝わる教えの一つに「将の位」と呼ばれるものがあります。
これは将几(胡床)と呼ばれる折りたたみの椅子に坐して行う技法群の事です。

神社仏閣などでよく用いられるので見かけた事がある方も多いかと思います。
これらは床几・牀几・将几(いずれも「しょうぎ」)と呼ばれております。
(また何れも『几』を『机』と書く場合があります)

古代より室町期までは胡床(こしょう・あぐら)と称していたそうですが、基本的に折りたたみではなく、いわゆる椅子としての存在であったようです。
また牀几の由来としては「牀」の字は、中国で人が寝たり坐ったりするために用いる細長い台状の物を全般を指す言葉であり、簡単に言えばベッドの事を指します。
細長いという形状を考えますと、時代劇において茶屋等で見かけるような、数人で腰掛けられるベンチのようなものを特に指す場合に用いるべき漢字と考えられます。

茶屋

将几は戦において床几に坐するのは、位の高い武将に限られるものですから、将が用いるものという程の意味で『将』の字を当てたものです。
実際戦国武将の肖像画は将几に腰を掛けている様子で描かれる事が少なくありません。

●本多忠勝肖像画

 

天心流ではこの将几の文字を用いています。

■将の位について

戦において、将几を用いる身分の者が攻め入られるというのは、敗北が決定しているような状態かと思われますが、何が起こるか分からない戦場における護身の心得であり、また死に花を咲かせる心構えとして伝承されています。
技法の詳細はここでは控えますが、抜刀術、薙刀術、槍術などの応用技法として「上士の剣」という側面が端的にあらわれていると言えます。

いずれは何かの形で将の位をご披露出来ればと思っておりますが、基本は様々な技の応用となりまして、そこまで驚愕的な内容であるというわけでもありません。
ただ心構えだけでなく、実際のその状況においての稽古を行わなければ、生きた技を身につける事は出来ないため、上級者が学ぶ事とされております。

■将几の向きについて

さてこの将几の向きについての議論があります。
将几の脚が☓(バツ)に見える方を正面とする写真の坐り方(縦置き)と、地面に接する_(横棒)が見える方を正面とする坐り方(横置き)です。
このどちらが正解なのか?
解答から先に申しますと、実はどちらでも構いません。
日本の時代考証家、武術家(正木流万力鎖術第10代宗家、江戸町方十手捕縄扱様宗家)でもあった名和弓雄先生は著書「間違いだらけの時代劇」の中で「☓(バツ)は間違いである」と明言されております。

 

間違いだらけの時代劇 名和 弓雄 (著)

 

曰く、「肖像画に描かれているものはすべて横置きだからであり、また地面に接する横棒の部分に足置きが付属している高級な将几であれば、縦置きにしてしまうと足置きが使えない」(以上概略)と説明されております。
確かに足置きがあるタイプであれば、横置きが正解という事になるでしょう。
ですが本多忠勝肖像画のように、実はかなりの数の肖像画や図絵において、縦置きにされている将几を目にすることが出来ます。
今の時代はネットでちょっと検索すればいくらでも見つける事が出来ますから便利な時代です。
絵は間違っていて参考にならない…という事でしたら、横置きの絵がある事もまた証拠にはなりません。

 

神社などで用いられる、横長の多人数掛けのものであれば、当然横置きが正しいと言えますし、前述のとおりに足置きやまた背のある場合にもまた横置きが正しいと言えます。

天心流では基本的に縦置きを基本として、これを崩し掛け(くずしがけ)と称しています。

そのため足置きを用いない事を基本にしております。
将几は宅で寛ぐためのものではありませんので、足を置く必要はなく、また咄嗟の取り回しにおいて邪魔になる可能性があるからという理由です。

そしてこれはもっとも重要な事ですが、横置きにしてしまうと腰が沈み込み咄嗟の挙動に障りがあるので、縦置きにせよとされているのです。
また同様の理由で咄嗟のある動作においても縦置きの方が利便性が高いという理由もあります。

単純に蹴り外すという使い方の他に、仕込みの刃を用いる場合にも有効です。

仕込みの将几についての覚書

 

ですから流儀の教えと致しましては縦置きとしておりますが、これは流儀の教えであり、どちらが正しい間違っているという問題ではありません。
往時の肖像画等でも描写がバラバラなのは、どちらも行われていたからであり、どちらをどういう意図をもって選択するかが問題だと言えます。

■ユニークな技法

将の位のように古い流儀には現代の感覚では大変面妖とも思われるような教えがあります。
時代が下ると共に、このようなユニークな技法を伝える事に意義を見出せなくなり、伝承も途絶えてしまう事は多かったようです。
先代も天心先生に様々な指南をする中で、「時代が違うからこんな事覚えても意味はないし、人から莫迦にされるけど、いずれはこういった事も価値が出てくるかもしれない」と余さず伝えてくれたそうです。

当の天心先生は基本的にそういうことに興味が無く、口答えや舌打ちをして叱られてばかりだったそうで、機嫌を損ねて口を利いてくれなくなり帰ってしまったことがあったり、口答えばかりすんなと天心流の技法で顎を外されたこともあるそうです。

しかしそれでも先代が実に根気強く天心先生に指導を続け(門人一同、よく天心先生に我慢して指導続けたと感心しています)、なんだかんだで先代の教えを我々に伝えて頂いているのはありがたいかぎりです。

残念ながら、こういった時代錯誤な教えを莫迦にされる方もいらっしゃいます。

確かに現代において、実生活上はなんの役にも立ちませんが、こういった実生活上に役立たない文化を楽しんでこそ人生の味わいです。

私達はこうした武家の文化から生まれた古伝兵法に価値を見出し、これを学ぼうとする有志は少ないながらも集っております。
もちろん肩肘張って神経質に稽古しているわけではなく、真剣にそして楽しく稽古に励んでおります。
それこそが伝承を途絶えさせぬための無用の用であり何よりの大事な事と考えております。

古流武術を今の時代に意味が無いからと破棄してしまい、伝承とのつまみ食いをするのではなく、文化的側面を含めて可能な限りすべてをしかも形骸化を可能な限り防ぎ、実伝として後世に遺す事が流儀の使命なのです。

【鍬海 政雲】




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