群書類従について

群書類従は塙 保己一(はなわ ほきいち)を中心に編纂された叢書です。
塙は江戸時代の国学者であり、その功績は容易に書き示す事が出来ませんが、簡単に紹介します。

1746年、武州(今の埼玉県)に姓を受けた塙は、わずか七歳で視力を喪い、苦労困難の人生を歩み、日本の歴史と文化を紐解く上で重大で偉大な大偉業を成し遂げた大人物です。
ヘレン・ケラーが「塙保己一を手本にしなさい」と教育され、1937年、記念館を訪れたのは有名な話です。

十一歳で母を亡くして、学問を志そうと江戸に出た塙でしたが、按摩・鍼・音曲などの修業を行うも上達せず、座頭金(ざとうがね)の取り立ても出来ずに苦しんだそうです。

ここで江戸時代の盲人の社会について少し補足します。

江戸期の盲人組織

中性から近世にかけて、日本には「当道座」(とうどうざ)と呼ばれる盲人の互助組織が形成されておりました。
女性は「瞽女座」(ごぜざ)、また当道座への参加を拒んだ盲僧琵琶法師による「盲僧座」(もうそうざ)というものもあったそうです。

当道座には階級があり、座頭市で有名な「座頭」(ざとう)もその一つです。
最高位の「検校」(けんぎょう)にはじまり、別当」(べっとう)「勾当」(こうとう)「座頭」の順で並ぶのですが、それぞれに更に細かく分類され、合計で73の位があったそうです。

この階級は元々、琵琶法師の称号として呼ばれたものであり、琵琶法師に盲人が多かった事から、組織化の中で取り入れられたようです。

この階級は官位(盲官と呼ばれる)であり、検校は将軍への拝謁も許され、当道座の最高位「惣(総)検校」は大名と同様の権威と格式を持っておりました。
この位は、稼業の業績で順次上がっていくものなのですが、金銀で購入する事が公認されておりました。

元禄以降には幕府から高利の金貸しを許されて、莫大な富を有するに至ったのです。
これが座頭金と呼ばれるものです。

その後の塙保己一

金貸しは取立て人がいなければ成り立ちません。
話を戻しますと、塙はこの取り立ての仕事がままならなかったようです。

幼くして視力を喪い、母を亡くし、手に職も持てず、心優しい塙には座頭金の取り立てもままならなかったそうです。
絶望した塙はついには自殺を決意します。
ところが数奇な運命は死を許さず、塙は助けられます。
そして師で検校の雨富須賀一(あめとみ すがいち)に学問への志を打ち明けてその扉を開きます。

熱心に修学に励んだ塙は、昇進して1775年に勾当となります。
そして1779年、塙が三十四歳の時「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)の編纂を決意しますが、これはこの後、実に40年の歳月をかけての大事業でありました。
1783年に検校となり、1791年には寛政の改革の一つであった当道座改革を担う座中取締役に抜擢。
1793年には群書類従編纂の拠点となる和学講談所を設立します。

この群書類従の編纂はあらゆる困難が待ち構える大事業だったのですが、これを書き始めると、本当に長くなるので、伝記などご覧下さい。

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群書類従は1819年、塙が七十四歳の年に完成します。
そして1821年2月には惣検校になり、同年9月に七十六歳で亡くなります。

その後の群書類従

その後、塙 保己一の四男、塙 忠宝(はなわ ただとみ)の手によってさらなる編纂が続けられるも、群書類従編纂の為の借金は莫大なものでありました。
そしてさらに時代のうねりが大きな不幸を呼びます。
1862年に忠宝が暗殺されてしまうのです。
この暗殺を行ったのが、後の初代内閣総理大臣である伊藤博文であったと言われています。
そして忠宝の子、塙忠韶(はなわ ただつぐ )が家と志を継ぎます。
しかし版木の維持管理が困難となり、忠韶はそのすべてを浅草文庫に献納。
その後は東京帝国大学に管理され、忘れられていた版木が1909年文部省構内の倉庫で発見。
再版が行われる。
また忠韶によって進められていた續群書類従も1911年に完成します。

1923年の関東大震災では愛染院(保己一墓所)の版木倉庫が倒壊するも、消失は免れます。
そして版木収蔵のための施設が企図。1927年に温故学会会館建設され移転。
ところが1945年、今度は東京大空襲に遭います。
会館周辺は焼きつくされ、会館内にも焼夷弾が飛び込みました。
これを温故学会前会長の斎藤茂三郎氏が手づかみで投げ出したそうです。
このような懸命の消火活動により、版木は守られました。

この版木は今なお、会館で保存されております。


塙保己一史料館・温故学会
http://www.onkogakkai.com/index.htm 

渋谷駅から徒歩10分ちょっとというアクセスの良さです。

開館日:平日(月~金)午前9時~午後5時まで
土・日・祝日については問合せください
電話・FAX:03-3400-3226
住所:東京都渋谷区東2-9-1
入館料:おとな100円/小中学生まで無料


ここまでが前段です…。
この群書類従、續群書類従には、武家の故実書、つまり作法、礼法などに関する多数の文書が含まれていました。
仮にも武士の武藝を嗜む者にとっては、その生活の有り様が示されている貴重な故実書が保存されている事は非常に有難い事です。
ただ斬り合いというだけであれば、あまり意味を持たないのかもしれませんが、天心流兵法では、武士の生活の中での護身、暗殺などの技法も膨大に及びます。
そういった中で武家の風習、作法礼法なども学びます。

ですが当然のことながら、武家の故実の全てが伝承されているわけではなく、当時の常識だからこそ、特段として残されなかった事も存在します。
また、現在ではほとんど用いられる事のないような礼法について、口伝がなされておりますが、そういったものはあまりに珍しいため、創作礼法であるかのような誹りを受ける事もありました。

数年前になりますが、そういった天心流に伝承する礼法を、そのままに記述する内容を「續群書類従」の中に発見致しました。
その事を書きたかったのですが、その「續群書類従」とは何か…という事を説明するにあたっては、群書類従とその編纂を行った偉人 塙 保己一の業績を紹介しなければならないと思い、この記事を書かせて頂きました。

次回はその礼法に関しての記事となります。

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