●2011年合宿
2011年、東日本大震災から14年が経ちます。
被害に遭われた方々に、心よりお悔やみを申し上げます。
私はこの季節になると、毎年当時のことを思い出します。
この震災は、天心流にも大きな影響を与えたからです。
私が天心流に入門して三年目が経とうとする直前(2008年3月1日入門)の2011年2月末頃、天心先生から電話が来てご自宅に来て欲しいとの事。
しかし当時、仕事が山盛りでどうにも行けそうになく、一山越えたら伺いますとお答えしました。
ですがその後、FAXと電話でとても大切なことがあるからと催促が来て、仕事を放置しておっとり刀でご自宅に伺いました。
そしてものすごく神妙な、重々しい雰囲気で私に一振りの刀を授けて下さいました。
言葉少なく「これからは流儀は君に託すから」と仰られました。
つまり次の代を託すという内証でした。
そして翌月、震災が起きたのです。
その日も天心先生と一緒に過ごしており、揺れがおさまった後、二人で外に出ました。
外には電信柱に抱きついていた高齢の女性がいらっしゃったのが印象的でした。
余震(なお、現在は大きな地震後にさらに大きな地震が起きることがあり、警戒心の低下を避けるため気象庁では余震という表現を使わなくなったそうです)がおさまった時に、刀などまとめてケースに入れて外に持ち出しました。
しばらく待ち、天心先生はご自宅の安全を確認するために慌ててバイク(今は免許返納済みで乗られていません)で帰宅されました。
天心先生にも拙宅にも特に被害はありませんでしたが、地震に津波、そして原発と日本中がまさしく大きく揺れた未曾有の被害となりました。
その後、天心先生が、実は三月に娘さんと福島の海岸あたりを旅行を計画していたがなんとなく気乗りせずに取りやめたらしく、「もし行っていたらもうここには居なかったかもしれない」とお話されました。
それからずっと天心先生は思い悩んだようで、他流の先生や周囲に継承についてよく相談されていました。
入門から三年少しではあまりに早すぎますし、無論修行が足りません。
ゼロから始めたわけではありませんが、他流は他流、天心流は天心流です。
しかし当時68歳になる天心先生にとって、残された時間が無いという焦りは相当なものでした。
私が入門時で65歳と今考えればまだまだお若い(今年で82歳)のですが、入門当時の天心先生の口癖は、「私の代で終わりだから」というくらい、絶望感があったようです。
1996年には「子も継がず、空しく枯れ逝く九代で 流名御太刀に刻み留めん」ご友人の彫師、一貫斎先生にお願いして愛刀に短歌を刻んで頂いていました。
天心先生と私がはじめてお会いした時、交流稽古と銘打った稽古で一方的に天心流を教わり、稽古後にご自宅にお招きいただいた際、正式な継承は無理でも少しでも技を遺したいと仰られました。
遠方(そのため入門後一年ほどで近くに引っ越しましたが)な上に多忙で、月に一回も稽古に参加出来るか分からないとお伝えしましたが、「そんなの関係ない、出来る範囲でいいからやって欲しい」と請われ、そこまで言われてお断りしては男が廃ると入門させていただきました。
しかし当時僅かに門人は居ました。
まして最古参の武井先生は当時で九年ほど修行しており、新参者の必要性に疑義を抱きましたが、実際に稽古してみると、それは氷解しました。
あまりに天心先生の指導が難解で、到底普通に稽古していては間に合いません。
そして天心先生の指導モチベーションも不安定です。
現代の若人にとって、指導者へのご機嫌伺いを要するような状況は、とても耐えられるものではありません。
また、話が下手で文章も下手な天心先生が何を言わんとしてるのか、その言葉と文章から汲み取ることは、尋常ではない難しさで、それまでも以降も私を除いて誰にも出来ませんでした。
私は元々人の心理を読みとるのが得意で、また祖父母と過ごす時間が長かったため老人が好きという所があり、また天心流の古流ならではな教えの面白さ、そして長く一緒に居ることでメタデータから天心先生の思考を読みとることが出来たこと、また伝書の欠如により、天心先生の書付と記憶に頼らねばならないという難しさもまたオタク気質な私にうってつけであり、整理していく作業は有無を言えない楽しさがあります。
私が入門前には禁止されていたビデオでの撮影も、入門二ヶ月後には説き伏せて開始し、あんなに入門者を希望しているにも関わらず頑なに拒否されていたホームページの作成も、一年をかけて口説き落としました。
(なぜ拒否されていたのかにも、物凄い面倒なエピソードがありますがそれはまた別の機会に)
私は子供の頃から死ぬほど負けず嫌いで、それは人生で無数のトラブルを引き起こして来ました。
ですが時に、天啓をもたらしてもくれました。
入門から数ヶ月、天心先生のご自宅にお招きを受けました。
その日ご自宅では、天心先生が手ずから鍋をご用意下さり、鍋をつつきながらお酒を嗜まれた天心先生は少し酔った様子でこう仰られました。
「なんでもっと早く会ってくれなかったんだ!今からでは遅すぎる!」と。
なんとも言えないお言葉ですが、私はその時に心の中でこう答えました。
「そんなことはありません!絶対に受け継いで見せます!」と。
もちろん私は入門を決めた時点で、学ぶ以上相伝を受ける気概で稽古していましたが。
一年ほどで代範(師範代)を任され、そしてその二年後には内証を頂きました。
そして震災を受けて天心先生はあまりに時期尚早ながら次代を託すと2012年2月11日の建国記念日に正式に師家を継承させていただくことになったのです。
しかしこれはあくまでも流儀を正式に継承するためのものでしかなく、修行とは別のお話です。
それ以降、多くの人々がなぜまだ指導を受けるのか?と疑問を投げかけられました。
それはまだ修行は完了してないからです。
相伝は、流儀を過たず伝えられるという証明ですが、あくまでも天心先生の高齢を理由としたもので、私の修練か十分だからではありません。
ですからその後も天心先生からより一層の稽古を受けましたし、それは今もこれからも変わりません。
そもそも学ぶほど深まる学びに、とても学ぶことを止められるものではありませんし、まだまだ天心流を名乗るのには稽古不足と言えます。
天心流と天心先生にお会い出来た幸運に感謝し、ここまで伝統を守ってくれた恩返しとして、全力で天心先生が伝えた教えを後世に伝えるべく邁進して行きます。