だいぶ日にちが過ぎましたが、過日衆院選選挙がありました。
いつものことではありますが、様々な情報が飛び交い、多くの論争、批判がひしめき合うものとなりました。
しかし毎回私が思うのは、いずれの立場、意見、能力にせよ、基本的に政治に携わろうという意志がおありの方は、いずれもリスクを背負って、貴重な人生の時間やコストを費やして選挙に立候補されています。
中には悪心を持ったり、軽い気持ちでという方もいるのかもしれませんし、何十年も議席を確保されている方は、また異なるものもあるのかもしれませんが、それでも日本を悪くしよう、自分さえよければ他はどうなってもいい、などという人がいるとが思えません。
綺麗事かもしれませんが、選挙結果は民意の結果として受け止めるべきですが、しかし落選された方々に関しては、その志を称えて尊敬すべきではないかと思うのです。
昔、日本は再チャレンジの難しい国だと言われてきました。
異国でも同様の風潮は少なからずあるでしょうが、取り立ててそういう傾向があると言われていました。
しかし昨今、失敗からこそ学ぶことがあるということで、再チャレンジを認めるという意識が育ってきていると思います。
「努力」が称賛された時代が過ぎ、今はある種の揶揄、嘲笑の対象とすらなっています。
私の昔の武道時代の師匠の話ですが、私たちが「頑張ります!」というと、「当たり前だろ!」と言われたものです。
「どう努力するか」を考えなければ、いたずらに努力しても無意味どころか、むしろマイナスになることも多いという厳しい教えでした。
ある意味では結果を出せというシンプルな話になります。
これはもちろん努力を前提とした上での話であって、努力そのものを否定することではありません。
しかし、努力自体を否定した結果、パンデミックを経た現在に残ったのは、何かに情熱を注ぐことへの忌避と、全力疾走をしない息切れのない、全力で酸素を取り込むことのない緩急の無い人生に対しての倦怠感です。
さとり世代という言葉がありますが、いわば全人類総さとり世代化です。
そんな時代において、勇敢に政治活動に飛び込まんとする人々に、その努力の方法とは別に、努力そのものを純粋に賛美すべきだと私は思うのです。
もちろん、師匠のように、間違った努力は肯定出来ないというのは現実です。
まして国政を動かすような人物には、間違っても間違った努力は許されません。
それでもなお、まず今一度、遮二無二、ひたむきに、愚直であっても努力することを一度称賛しなおしたいなと。
その努力の根底があるうえで、ではどのように努力するかが問い直されるべきであって、いたずらに努力を否定しても社会は冷えるばかりで、面白みもなにもない無味乾燥な生き様が待っているばかりです。
無様でも、不格好でも、足掻いて藻掻いて笑って泣いて苦しんで、人生を味わう方が楽しいと個人的に思う次第。
