監視社会

稽古場への出入りでは、居住まいを正して一礼します。
しかし時々なぜするのかという質問受けることがあります。
室内に居る人への挨拶はもちろん、人が居なくても越境に際する慣習的儀礼として行います。
誰も見ていない時の所作にこそ意味があるとも言えます。

多くの場所に監視カメラがついていて、また色々な人がチェックをしていて、なにかあればSNSに晒される時代です。
ネット上でも炎上リスクがあり、休まる場所がなかなかありません。
こんな管理されたデストピアだとする意見もなります。

さて、昔はどうだったのかというと、相応に互助の精神があり、それは近隣の助け合いは干渉でもあり、それこそ監視と受け取ることも出来るものだったでしょう。

しかしそれでは人が見ていない時には自由にしてよいのかという問題があります。

往時の日本の考え方として、神仏、お天道様、そしてご先祖様という概念がありました。
つまり誰もが常になにか見られているという、セルフ監視社会だったと言えます。
罰当たりであったり、ご先祖様に顔向けできない…というような言葉はそういった意識の表れでしょう。

他人が見ているから、他人が認めてくれるから、他人が褒めてくれるから。
そういった考え方は、効率的で合理性に満ちているように感じます。

しかし誰も見ていない時に、認めてくれない時、褒めてくれない時にどう振るまいかでその人の価値が決まる。
そう昔の人は伝えています。

誰も見てないからと、みんなでゴミをポイ捨てしだしたら町はどうなるでしょうか?
誰も見てないからと、ごみの分別を怠ったら、ゴミの処理にものすごいコストがかかってしまいます。
誰も見ていないからと、店の物を盗むのが常習化したら、徹底的に防犯カメラを配置して、私服警備員を大量に導入しなければなりません。

日本は高いモラルとマナーのある国です。
だからこそ、ルールやコストが低く抑えられます。
自らを律する力を失えば、少々のゴミでもそこら辺にポイ捨ててしまいます。
ゴミ箱があるところまで、自宅まで我慢すれば済むだけのことであり、労力で比較すれば、それはそんなに難しいことではないはずです。
しかし自律を当たり前という社会を作るのには、長い年数が必要です。

海外からの門人さんを観光案内につれていく時、観光地あるあるでゴミ箱がないと困ることがあります。
でもゴミ箱が無いのに、日本では道がきれいだと不思議がります。
そこら辺に捨てればいいのに、それを多くの人はしません。

海外ではたくさんゴミ箱が設置されているのに、たくさん道端にゴミが捨てられている風景を目にします。

昨今話題になる行き過ぎた日本礼賛はそれはそれですが、これは誇って良い文化だと思っています。
監視カメラとSNSで監視されるよりも、神仏やお天道様、ご先祖様にお見守りいただいている方が、よほど精神的にもコスト的にも良い社会なのではないでしょうか。

 

 

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