平和と闘争

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【鍬海 政雲】

この季節、毎年悩むことがあります。

原爆投下、終戦など、そういったことに対して、Xで祈りの投稿を行うか否かです。
日本の歴史的にみて大きな出来事ですし、風化させないために投稿する価値のある事です。
が同時に、少なくとも日本で戦争が起きていない今、ただの一日でもあります。
それは東日本大震災や熊本地震など、大きな災害が起きた日でも、遠くに居る特段影響のない人々にとってはそれはただの一日という表現が出来ます。

この一年、私の周辺では大きな事件は起きていません。
しかしウクライナとロシアは戦争をし、ホルムズ海峡でも大規模な戦闘が起きていました。

ということで今年は少し、記事を投稿しようかと思います。
私たちの継承する武術は戦闘の技術を伝えています。
武士文化の血なまぐさい一面をそのまま伝えています。
楽しく稽古していると言っても、その技法では多かれ少なかれ相手を傷つける稽古をしています。
ある意味では非理性的で野蛮な行為です。
そのため、この時代に武術を継承し、これを普及しようとする事に疑問を持たれる方が一定数おられます。

平和が一番。
殆どの人がその意見に同意する中で、しかし同時に、エンタメとして戦闘行為は極めて愛好されます。
この双極が人間そのものです。

平和を求めながら、同時に闘争を求める。
少なくとも私たちが直接的に脳や遺伝子に介入することがない限りは、この状況は変化しません。
しかし、だからといって実際の世界に闘争を生み出すべきかというと、そうすべきではないというのは、殆どの方に同意いただけることかと思います。

武術は稽古において、闘争の手段を学びます。
これによって稽古者の闘争心が助長され、攻撃性が増すという研究があります。
同時に、稽古次第で感情のコントロールを学び、抑制することが出来るようになるという研究も存在します。

これはいつも天心流で伝えていることですが、この現代においてもし武術が単に暴力装置として、闘争を助長するものとしてしか存在しえないのであれば、そのような反社会的なものはこの世に存在すべきではありません。
コントロールの利かないもの、コントロールする気のないものを野放しにする方がおかしいと言えます。

ですから武術は、常に抑制とセットで指導が行われなければならないと私たちは考えています。

「稽古してたら人切りたくなるでしょ?」
「刀を持ってたら人を切りたくならない?」
こういう質問をされるのは、武術修業者あるあるです。
事実、稽古は人を切ることを想定していますし、実際に行えば当然人を切ることが簡単に出来ます。
そうであることを目指すのが稽古なのですから当然です。
天心先生は「江戸時代にタイムスリップしたら本当に使えないと」と言っています。
そのように本当に切れることを目標とし稽古に励むことと、日常において周囲を切りたいというのは、まったく話これをしてが異なります。

人生で他者に殺意を抱くほどの怒りを持つというのは、決して珍しくないと思います。
一度も殺意を抱かず人生を終える人はどれほどいるのでしょうか。
まあいっぱいいるのかもしれませんが、ともかくそれほどの激情を抱くことと、実際に他者を傷つけることには大きな差があります。

稽古の中で、これで果たしてどれほど戦えるのか、切れるのか?と疑問を抱くことはとても自然なことです。
そのため試斬や仕合というものが存在します。
実際に往時にはそういったことを推奨する気風が一部にあったのも事実です。
武士の間で新しい刀の切れ味を試すために辻斬りに出向いたという談話など、多く残されています。
また昭和の武道でも、腕試しや技を試すために街に喧嘩に繰り出すのが美談として長く語られてきました。

そういった、現代の価値観では負の側面と言わざるを得ない部分(これをもって往時を批判する気は毛頭御座いませんが)が確かにあります。
ですが、現在ではこれは当然ながら禁忌です。
そもそも現代に刀を振るうのは既にファンタジー、幻想という位置づけでなければいけません。
死に物狂いで研鑽し、仕合をして、試斬をして、仮に往時の剣豪を凌ぐ実力を身につけたところで、人を切ればただ犯罪者です。
戦争で人を殺せば英雄かもしれませんが、日常で人を殺せば殺人鬼です。

闘争の術を学び、強さを求めても、それ以上にそれを律する精神が重要です。
ですからこうした平和記念日などには、改めて私たちが振るう太刀について、立ち返って考える日としなければならないと思います。
やっている側は真摯に、真剣に、そして楽しく稽古に励んでいますが、傍目には危険物を振り回している人々です。
なぜか最近多いですが、刀に限らず、刃物や棒状のものを路上で振り回せば犯罪です。
しかし、それが馴染めば馴染むほど、世間との認識の乖離を生みます。

ネット上で、日頃から刀の技術の研鑽を重ねている人が、物騒な脅しともとれるような投稿をして、互いにいがみ合っているのを見るとぞっとしますし不安になります。
果たしてこの方々は日々の怒りに対して、きちんと自らを律することが出来るのだろうか?と。
文章だけかもしれませんが、文章で罵詈雑言、脅迫的な言葉を叩きつけることを我慢出来ないのに、なぜ刀を打ち付けることを我慢できると言えるのか…と不安を覚えます。

武術は闘争の手段を学ぶためで、精神性を身に付ける手段ではないと説く先生方もいます。
しかし少なくとも柳生宗矩公の活人剣を伝える天心流はそうではありません。
その根底には、長く続いた戦乱を終えて、元和偃武(げんなえんぶ。1615年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、応仁の乱以来150年近く続いた日本の戦乱が終息して、平和な世の中が訪れたことを指す宣言)を宣言した徳川政権。
(実際には後代によってそのように定義づけられたというのが正しいようですが)
この平和を末永く維持することを託して編み出されたと伝えられるのが天心流兵法です。

元和(げんな)は慶長から改められた新元号です。
偃武は中国古典に由来します。

王来自商、至于豊。乃偃武修文。
「王は商(殷)から帰還して豊の地に至った。そして武力を収め、文治を整えた。」
偃武は武器を倉庫に仕舞ったという程の意味で、転じて武力を収めたということです。

柳生宗矩公の兵法家伝書では、人を傷つけることは天の求めるものではないので殺人刀(現代よく言われるのは殺人剣)であると言っています。
しかしもしあなたが振るう太刀の対象が悪人で、その悪行により多くの人々が傷つけられるのであれば、それは悪を断つためのものであり、それはすなわち活人剣なのである。
とても大雑把な説明なので、出来れば味わい深い原文を読んで欲しいところですが、いたずらに闘争を求めて人を傷つけるのであれば、それは殺人刀であり、そのようなものを天は求めていない。
すでに400年前に柳生宗矩公はしっかりと伝えています。

稽古者が真剣に稽古を楽しみ、時に演武を行い、SNSなどを通じて存在を示して、また文化的背景の普及も含めて多くの人々にも味わっていただく。
今や海外十カ国以上にこの剣は届き、また世界中に認知されることともなりました。
そして日本の精神性を伝えて、国際的にも宗矩公の伝えた活人の剣を伝え、人を傷つけるはずの太刀が、平和をもたらすためのものと姿を変えていく。
これが天心流の願いであり、平和の祈りです。
刀は振るっても、鞘があるから治まります。
納める鞘を無くした太刀は、時に持ち主すらも傷つけます。
願わくば、すべての武器が、防衛を除く闘争に二度と用いられないことを祈ります。

広島、長崎、そして太平洋戦争で亡くなられたすべての人々、そして今なお苦しむ世界の闘争に対して、平和の祈りを込めて。

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