過ちて改めざる、是れを過ちと謂う

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子曰、過而不改、是謂過矣

子(し)曰(いわ)く、過ちて改めざる、是(こ)れを過ちと謂(い) う。

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中国の古典、論語にある言葉です。
人間は万能では無いので、いかなる賢者であっても過ちを犯します。
しかし人間は学習する生き物です。
間違いを犯しても正すことが出来ます。
ですから本当の過ちとは、間違ったことに気付いたのに自らを正せない(または過ちを正せない)ことなのだと説いたわけです。

SNSでは日々、心無いコメント、また間違った知識、認識からのコメントが多数寄せられます。
時々、返信をしますが、高確率で非を認めることもなく、謝罪しませんし、訂正しませんし、正してもらったことに感謝をしません。
負けを認めたら負けだ(?)という感じでしょうか?
しかし人は成長出来ます。
勝ち負けではなく、ただ間違いを犯しただけです。
すぐに自らの身を正せば済みます。
ですが残念ながらそれが出来るのはごく一部の限られた人間だけで、そういう人は、日々「自らを正当化しようとする自分」と戦っています。
(中には生来正されて素直に聞けるという人もいるのでしょうが)

私は、コメントを返しても初めから反応がわかっているので、基本的にそうしたコメント、消してブロックしています。もちろん普通に質問があれば時間がある時など返答させていただきますが、特に初めから莫迦にした文章、見下したような文章、誹謗侮蔑を含む場合は、限りなく100%まともな反応は返って来ません。
そうしたコメントは、御本人の無知と程度を晒しているという恥なだけなので、削除するというのは私なりの優しさです。
あとは清掃と同じです。
端から話を聞く気のない人間を諭すのは、双方にとって大きな時間の無駄です。

指導の中でもそうです。
注意をしたり、修正をすると、まず言い訳や自己弁護を行う人がとても多いです。
しかしそれは意味がありません。
指導者も人間ですから、間違いがある場合もあります。しかし少なくとも高確率で教わる側に間違いがあるからこそ指導者として成立しています。
そもそもそれほど間違いだらけの先生ならば、教わるべきではないと言えます。
それでも人は自分自身の正当性を主張し、時間を無駄にして、自分の心に壁を作り、結果上達を先延ばしにしてしまうのです。

日本には「はい」という返事の文化があります。
これは例え心の中には抵抗感があっても、それを飲み込んで受け入れるためにとても有用な言葉です。
しかし今、日本で素直に「はい」という言葉が言える人は、ごくごく一部です。
老若男女が自らを曲げることに抵抗しているレジスタンスのようになっています。
そうした人びちは学校や社会で長年にわたって理不尽に耐えることに疲れたのかもしれません。
でも、もし今の自分に満足せず、次の自分に出会うのならば、それは必要な通過儀礼なのです。
抵抗する自分自身を押さえつけて、変わるためには、自我を抑えて先達の言葉に耳を傾ける必要があります。

論語の孔子は、紀元前552年に生まれた人です。
2500年近く前の教えはまったく色褪せることなく現代にそのまま通用します。

 




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