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■ 他人の足を引っ張る行動が多い日本人
「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82246?imp=0
元となった大阪大学社会経済研究所第3回行動経済学センター第3回行動経済学センターシンポジウムより「日本人は「いじわる」がお好き!?」(pdfファイルです)
https://www.iser.osaka-u.ac.jp/iser-rcbe/2006/siryo-saijo.pdf
西條辰義「日本人は『いじわる』がお好き?!」
https://note.com/keisemi/n/n73d26684f44a
雑にまとめると、共通作業において全員が一律に作業を負担することは難しく、必ず一定の不均衡は生じます。
つまり楽して得する人が出てくる。
これに対してフォーカスして、不均衡を是正するためにエネルギーを割いたり、嫉妬から足を引っ張るととても非効率的で、結局全体として物凄く損をします。
一定のタダ乗りする人も許容して、現実的な最適化を目した方が成果が出る。
日本人は、有意に他者の足を引っ張り、結果的にとても非生産的、非効率的になりやすいのではないか。
といってところでしょうか。(知らんけど)
まあ肌感覚としては物凄く納得します。
日本では不公平を徹底的に排除しようとしたり、うまく行っている人は悪いことをしているのではないかと、やたらに批判的になります。
不平等嫌悪
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E4%B8%8D%E5%B9%B3%E7%AD%89%E5%AB%8C%E6%82%AA
そしてどうやら私たちの脳は、根本的に親切に鈍感で、嫌がらせに敏感に出来ているようです。
まあ生存戦略的には、得より損(危険・リスク)に敏感でないと生き残れないというのは納得出来ます。
私も色々世界中の人々と交流させていただく機会がある中で、根本的にはそういった人間の本能的な部分はそこまで差はないと思います。
ただ、文化的背景の中で、後天的学習的にそういったマイナスを排除するのが顕著な国があり、日本は有意にそういった不均衡を避けて行動する文化が根強いということになるのかと推測しています。
しかしこの時代においては、否定の文化は非効率的、非生産的であると言えます。
残念ながら武道・武術界隈も長年にわたって足の引っ張り合い、他流批判、誹謗中傷の温床でしたが、見事に文化としては衰退の一途をたどっています。
社会や時代のせいにしていますが、生活文化(生活に必須でない文化の総称)でないものなどこの世の大半がそうであって、結局、携わる私たちのマインドの問題であるのは明白です。
■ 否定と批判で育てる文化
少なくとも基本的には、否定と批判は武術指導の原則になります。
いくら良いところを伸ばすと言っても、流儀の本質から乖離してしまえば、少なくともその流儀の動きとしては否定せざるをえませんし、その動きはある面での合理性があっても、実際求める部分では勝てないという所に帰結します。
一面の合理性をもって、本来求めようとしている合理を欠損するということがあるのです。
他流の技法批判などは、このあたりの原理原則を理解出来ていないからこそ出来ることであり。、自身の無知と未熟をさらけ出す恥ずかしい行為でしかないのです。
さらに伝統保存の観点でもやはり好き勝手に動けばよいということにはならないということも言えます。
私自身はカリフォルニアロールも大好きですが、これを江戸前の伝統的な寿司ですと言われれば、それは違うよ!となるわけです。
そして、往時の場合は、命のやり取りは例え平和な江戸期においても武士の本分であり、地域性や流儀、個人などそれぞれに温度差があったでしょうが、やはり厳しさ、否定と批判は基本となります。
天心先生はそもそも指導能力は皆無ですが、その厳しさ、否定と批判を基軸とする指導方針そのものは本義的には天心流の指導そのものです。
とはいっても、いわゆる体育会系的なしごきやいじめ、体罰とは異なるものですが、しかし間違いを肯定すれば、死に直結する世界です。
例えば医療の世界で、少し手術の手技間違えちゃったテヘペロ!薬剤の量とか種類間違えちゃったテヘペロ!が許されないのと同じようなものです。
武人一人の死は、土地を奪われることに繋がり、一族、主君、家臣、そしてその領民すべての不幸に繋がるわけですから、必然的に武術の修業というのは厳しさを持つものとなります。
その部分も伝統という意味でも、武術としてレベルの向上保持という意味でも欠かせない部分ですが、しかし使うタイミングを慎重に見極めなければならない時代に来ています。
もはやほとんどの人は厳しさを覚悟して稽古には来ていませんし、実用を求めて稽古するわけでない現代、それをスタンダードにするのは間違いだと考えています。
私自身の気質としては、命がけでも上達をさせたいという意識がありますし使命感もあります。
二泊三日の合宿中、3時間仮眠を取った以外、食事とトイレとシャワー以外のすべての時間を指導に使った程度に、異常な情熱で指導に注力してきました。
「馬を水辺に連れて行くことは出来るが、水を飲むかどうかが馬次第」
「You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.」
出典はよくわからないですが、昔からよく例えられる話です。
子供の頃に通っていた道場で、よく先生が「トイレに行きたくなってお母さんに行ってもらっても解決しない」と言っていました。
何事も最終的にはその人の人生であり、本人の選択次第。
私たちがすべきことは、はるか頂きに至るための道を示すことであり、登頂は個人の意志に委ねなければいけません。
すべての人が山頂に行く必要はありません。
それが山腹(さんぷく)、尾根(おね)であっても、そこから見渡す空と頂き、見下ろす森と街並みと海、その地平線と水平線は、麓(ふもと)からは見られない絶景です。
■ 肯定力
そんなわけで、一種の体育会系で学んでいた私も、先代から雑巾をぶつけられて育てら、実際に門人にそのように接してきた天心先生も、今一所懸命に学び直しをしています。
今の天心流の最重要キーワードは肯定力です。
実際、否定され拒絶されることに慣れて恐れから傷ついた獣のようになっていた天心先生が、ある程度温和そうなお爺さんに十年かかって変わったのは、私が徹底的に肯定したからです。
記憶が間違えているかもしれない、あやふやだったりするかもしれない、家が焼けて伝書を失ったこと、自身が招いた事件で公に天心流を指導出来なくなった(と思い込んでいた)こと、それで先代が作ってくれた会が解散になったこと、隠れるように指導している中で指折り数える程に居ない門人の指導がきちんと出来なくて誰も修業を続けられなかったこと…。
すべてを否定せず肯定しました。
(他流批判など中には肯定するために否定しなければならないこともありましたが)
いたずらに褒めると、褒められないとやらない報酬のためだけにモチベーションを維持するというマイナス面が指摘されていますが、正しく稽古を行って上達すれば自ずとレベルアップします。
無理に出来てもいない、上達してもいないものを無理やり褒める必要はなく、正しく稽古を行えているという上達の過程も、確実な上達に結実することが明瞭なので、それも徹底的に褒めて差し支えがありません。
こうした他者の肯定というものに、私を含め多くの日本人は不慣れです。
だから、大仰な程に取り組んでようやく効果的くらいのつもりで取り組まないと、なかなか目に見えるような変化には結びつかないと思います。
コロナ禍で全世界同時ヒステリー、誰もが多かれ少なかれこの生活、状況にストレスを抱えており、そうした時にこそ大いに変化して新たなステージに挑むべき時です。
伝統を守るためにこそ、自分たちは変わっていく。
この姿勢を保たなければ、刻一刻と大きく変化し続ける時代の潮流に容易くのまれてしまうことでしょう。