他人は自分の世界の居候(いそうろう)

3 min 7 views

【鍬海 政雲】

大反響で興行収入82.3億円を突破した映画シン・エヴァンゲリオン。

そのエヴァンゲリオン伝説の幕開けとも言えるのがテレビ版最終話です。
「僕はここに居てもいいんだ!」とかいって伝説のおめでとうエンディング突入です。

みな、猛烈な心象風景に呆然としたまま、「え…ええんやで…」と返したとか返さなかったとか。

しかし本当に「ここに居ていいのか?」というと私の意見は異なります。

人間はそもそも本来主観的な存在であり、利己的で自己中心的な存在です。
社会的生物であり高い知性を持つため、社会性を身につけ、周囲を尊重し、周囲と共存共生、共存共栄するため、利他的行動を取りますが、それも我があってこそです。

赤ん坊や子供を見ると、我々が本来どれほど利己的なものであり、自分が主役として生まれたのか痛感させられます。

世界の中心でアイを叫んだけもの

これがアニメ版エヴァンゲリオン最終話のタイトルです。
タイトルの元ネタはアメリカのSF作家ハーラン・エリスンによる「THE BEAST THAT SHOUTED LOVE AT THE HEART OF THE WORLD(世界の中心で愛を叫んだけもの)」。

世界に愛してるぜ!と宇宙に暴力をまき散らすお話(短編)。

他人はみんな居候

さて、話は変わりますが、嫌いな人や、害をなす人間のことを考え続けてしまう人がたくさん居ます。
そもそも私たちの祖先は、長い間厳しい生存競争に晒されて来たため、私たちの脳には危機、危険の認識力と警戒心が強く存在しています。

だから、必然的にネガティブに対して過敏になってしまいやすい生き物なのです。(トキソプラズマにでも感染しない限り)

しかし現代において、生存に関わるようなネガティブな状況、情報に接する機会はそう多くはありません。
(コロナは置いといて)
腹立たしい隣人、会社やサークルの中の嫌いな奴、むかつく店員…そうした多くのネガティブは、生存レベルにおいては無視出来るレベルの存在に過ぎません。

また極論言えば、実害すらなす輩が居ても、現実的な対策を講じるため以外において、そうした人物の事を考えても腹が立つばかりです。

そんな人間のことを無意味に考え続けるのは、その相手を頭の中に居候(いそうろう)させる行為にほかなりません。

だからもし出来るなら、一刻も早く脳内から立ち退いてもらうのが、精神衛生上正解なのです。
(まあ現在進行形で嫌がらせ受けてるとかはまた別問題ですが)

人間の脳は、ピントを合わせるほど合いやすく出来ています。
腹立たしい相手のことを考えるほど、彼らはあなたの脳髄深くに居座り、立ち退きを強固に拒絶します。
私も昔は立ち退いてもらうのが苦手でしたが、今では克服し、瞬く間に存在を追い出して、忘れられるようになりました。
なにごとも訓練です。

みんな居させてあげる

さて、話を戻します。
以上のことから、「僕はここに居ていい」という表現は、社会性(エヴァンゲリオンだとATフィールドを無くしてLCL化して自我が溶け合った融合存在)においては間違っていませんが、主観的なこの世界のアイ(I)としては正しくありません。

どちらかというと。

みんなここに居させてあげてやろう!

です。
本来人間にとって世界は主観的であり、利己的な存在であり、主役は自分です。
周囲の存在、ありゆる出来事はこの脳髄があってこそ存在するものであり、私が死んでも世界は続くのでしょうが、私が居なくなれば世界はあってもなくても関係ない、ただ在るだけのものになります。

そもそも世界は、私という受け取り手があるからこその有(意義)であり、世界を受け取る私を失えばただあるだけで意義を失った空(くう)になります。

般若心経がとてもわかりますくその辺りを説いて(解いて)います。

そんなわけで、すべての人々は私の世界に居候(いそうろう)させてあげてる住人です。

シンジ「皆はここに居てもいいんだ!」
みんな「ありがとう!)

このように独立しきった自我をもてたら、皆一緒に人類補完計画とか補う必要性がないわけです。

卑屈さの根元

なんでこんな話を書いたかというと、これはそのまま先日、ある門人にお話しした内容なのです。
その人は、幼少期から家族からダメ人間として抑圧され、なにがしたいのか、好ましいのか、何が目的に対して正しかったり、すべきなのかよりも、「どうしたら怒られないで済むか」「怒られないように振る舞うにはどうするか」を考えてしまう。

「怒られないようにする」ことが脳のキャパシティの多くをしめてしまうので、思考も視野も狭まり、所作もおどおどしたものになってしまっていました。

確かにこの社会においては、他者を理解して他者を慮(おもんばか)るのは大切なことです。

しかしそれは自分に利することがなければ意味がありません。

人間はみんな自分のためにしか生きられない

人は基本的に自分のためにしか生きられません。
自己犠牲の精神とて、そうすることが社会や他人のためになり、それが自分にとって好ましいからこそ、自己を犠牲にします。

時間や労力やお金を使って周囲の人のためになることをしても、それによって自分の気分が良くなるからこそ行っています。
感謝されるか、されなくても何らかの成果が出たり、それすら無くとも自己満足感を得られたり。

この利己的な自分と向き合うことで、○○してやったのに!というような、恩着せがましい言葉を使わなくなります。
(ちなみに私は高校時代くらいにこの考え方を学んでそういう思考がなくなりました)

人への優しさ、思いやりからの行動も、自己満足以外のなにものでもない。
この自覚はとても大切です。

整理すると、まず自分が世界の中心であり、皆は自己世界の居候(いそうろう)であるということ。
そして本質的に利己的な存在だと自覚する。
最後に、お互いに居候であり、自分だけではなく同じように利己的な他人が居る。だから互いに思いやり、譲り合って良好な関係と社会を構築していく。

これが驕りではない自尊心と、卑屈さではない謙虚さを身につけるマインドセットです。

関連記事