【鍬海 政雲】
本記事は、過去にブログに掲載したものを、当事者である井手師家、そして武井師範、佐保田監事(一般社団法人天心流兵法)に再度聞き取りを行って、ブラッシュアップしたものです。
まだお若いお三方からすると、過去の話など掘り起こしても…という意識があったようですが、実際にお聞きすると、一様に記憶がめちゃくちゃ曖昧模糊としていました。
連続した人生体験が記憶であり、連続しているがゆえに覚えていると誰もが錯覚しています。
しかし実際の前後関係、時期などは実は記録しておかないとすぐに風化してよくわからなくなってしまいます。
私が天心先生からの聞き取り時に、小学校の担任の先生から、点々としていた職場のことまで出来る限り記録しているのは、そうした積み重ねが、連続性を再現するために必要不可欠だからです。
というわけで今回ブラッシュアップしたものの、第三者的にはやはり完全には整理することができませんでした。
今度、You Tube向けにインタビュー動画など撮影したいと思います。
まず今回は長年私が聞いていた話から記録したブログ記事を元に、今回今一度ご当人方に聞き取りをして整理しなおした、過去の天心流についてのお話となります。
どうぞご一読ください。
ちなみに井手師家のお写真などたくさん使って…と思っていましたが、そもそも天心流入門以前のお写真などすべて捨ててしまったらしく、スパイか何かか!?ということで、まあ入門当初のお写真はかろうじて発掘されたのでそちらも併せて御覧ください。
天心流兵法 第十一世師家 井手柳雪先生(柳雪は天心先生より授かった武号)の入門エピソードはなかなかに痛快です。
今回はそんな井手師家の入門エピソードとその後のお話をご紹介します。
今からおよそ20年近く前の話、当時明治大学生だった井手青年が入学後まもなくの頃、親友であり後に同門となり今や流儀の運営を支える佐保田剣士から「いでっちよ~!日本男児たるもの、何か日本の古武道を学ばなければいけないのではないか」と言われたそうです。
修羅の門など愛読されていたため、お二人とも古武術に対して憧憬を抱いていました。
激しく同意した井手青年は、さっそく情報集めに奔走します。
時は2000年代初頭、今ほどにネットの情報はなく、あれこれと探した結果、唯一、月刊秘伝誌が年に二回特別付録として発行していた道場ガイドを見つけました。
現在はオンラインでの道場ガイドに移行していますが、当時は毎号の巻末に道場紹介コーナーがあったほか、夏冬の二回の特別付録として、全国様々な道場の紹介を小冊子にまとめていました。
その道場ガイドから様々な武術を検討する中で、家からも比較的近く、また不思議な存在感を示していた天心流兵法を発見した井手青年はさっそくコンタクトを取りました。
電話に出られた天心先生から、是非来るようにと歓迎されて、さっそくお会いする日取りを決めました。
お会いする前日、アポイントの確認で再度天心先生に連絡をしたところ、話が通じません。
実は当時の天心流は公には弟子を取っていなかったのです。
天心先生の知人で他流の先生であった方と名字が一字違いで、酔っ払っていたことも手伝ってか(多分関係ないですが。基本的に天心先生は人の話をきちんと聞かず、いつも早とちりするので)、その知人の先生と井手青年を勘違いして居たのです。
演武会でご一緒するたびに、刀を教えてあげるから今度会おうとお誘いしていたため、てっきりついにその気になったんだ!と嬉しくなって舞い上がって承諾した次第。
いきなり「今は弟子を取っていない」と天心先生に言われ、「それなら道場ガイドに載せるな」と心の中でツッコミつつ、途方に暮れる井手青年に対して、「男に二言はないから」と天心先生は仰っしゃり、とりあえず明日の面会は実現することとなりました。
そんなわけで井手青年は単身天心先生のご自宅に乗り込むこととなります。
ご自宅は日本家屋などではなく、普通のマンションの一室で、室内は恐ろしい程に雑然としてします。
しかし当時は警戒心が強く、そこまで雄弁でも親しげでもなかった天心先生の無骨としたその姿に、井手青年は衝撃を受けました。
「これぞ本物の武道家だ!」というようなものだったようです。
はじめてお会いした武道・武術の道の人が天心先生というのは、なかなかにエキセントリックな体験だったかと思います。
私などは幼少期からいろいろなタイプを見てきたので、どちらかというと天心先生はこれぞ奇人変人!といった印象でした。
武井先生や井手先生、また私がお会いした時もそうでしたが、当時は流儀の秘密や先代の事を隠すということ、そして長きにわたって様々に否定・批判され続けた反動もあり、疑心暗鬼に陥っており、人とコミュニケーションを取りたいけど、警戒度マックスという状態でした。
現在では当時の鬱々とした負のオーラを纏うこともなく、とても変だけど気さくなお爺ちゃんという印象ですが、それはとても長い時間をかけて永久凍土の如く凍りついた心を溶かしたからです。
流儀の簡単、かついまいちよくわからない説明と、少し技など披露され圧巻された井手青年はこれを学びたいと強く願いますが、天心先生からは今は弟子を取っていないから無理と言われました。
他を探しなさいと、後日、別の道場の見学に案内されました。
しかし天心先生と天心流の魅力にすっかり魅せられてしまっていた井手青年にとって、他の流儀に入るという選択はありえませんでした。
「色々見るといいよ」という天心先生の言いつけに従い、道場ガイドや僅かなネットの情報を頼りに、演武を見てみたり、一年かけて色々探しますが、やはり井手青年の「天心流だ」という確信は変わることがありませんでした。
ちなみに弟子を取っていないのに、道場ガイドに掲載していたのは、故あって弟子は取れないけど、流儀の名前や存在だけでも、何らかの形で示したい、残したいと天心先生が希望されたためでした。
そして一年後、再度天心先生に連絡し、「色々と一年掛けて探しましたが、私には天心流以外は考えられません」と自らの意志を伝えました。
苔の一念岩をも通す。
さすがにそれだけ時間をかけても、学びたいという意志をもった希望者をはねのけることが出来ずに、天心先生は、およそ数年ぶりに門人を入門させる事となったのです。
それ以前は、お子様や職場のご友人、気まぐれで縁をいただいた方を入門させることがありましたが、職場の方は技法というより試斬ばかりで、お子様がたにもそれほど技法を伝えることがされていませんでした。(そもそもきちんと稽古できる広い稽古環境がなかったのです)
数年前に入門した武井先生ともうお一人の方は、不定期的で稽古環境も不十分な中でしたが、気まぐれな天心先生の予定に極力日程を合わせて、稽古に励んでいました。しかしそういった環境の中で、弟子二人で流儀を保存するのはの困難であり、「もっと弟子を増やしてほしい」と再三再四天心先生に懇願しましたが、そのたびにピシャっと否定されていたそうです。
そのため井手青年が入門されると知った武井先生は大層驚いたそうで、一体何があったのかと訝しんだそうです。
当初は天心先生の生家で指導されていたのですが、その後マンションを購入されてからはそちらで指導されるようになり、井手青年が修業を開始したのはそのマンションになります。
武井先生などは生家で稽古をされていましたが、天心先生が居を移してからは、同じくマンションで稽古をされることとなりました。
生家を手放したわけではないのですが、天心先生にとって生家は苦い記憶が強く、あまり居心地の良い場所ではなかったようです。
そうして待望の天心流に入門を許されて、井手青年は熱心に稽古に励みました。
二年ほど経ってからは、井手青年の入門を許したことで気が緩んだのか、郵政を定年退職されたこと、またお子様がたが無事に成人を迎えられ男手一つでの子育てを終えたこともあって、武井先生の知人関係者を二名ほど、また、やはり道場ガイドからの問い合わせ者を一名入門させました。
そのように本格的に受け入れを了承するようになったのは2007年あたりからとなります。
井手青年からすると、一年も掛けて入門したことがバカバカしい感じがするかもしれませんが、その井手青年の粘りと入門がなければ、もしかすると今も門戸を閉ざしたままだった可能性すらあります。
(少なくとも私が入門することはありませんでした)
いよいよ門人が増えたということで、きちんとしたスポーツ施設をお借りすることとなって、本格的に修業が始められるという段階になりましたが、大学院を卒業された井手青年には人生の転機が待っていました。
そう、就職です。
就職先は筑波であり、筑波住まいとなった井手青年にとって、週一回の稽古に通うことは時間的にも金銭的にも厳しい状況でした。馴れない仕事、そして限られた初任給です。
行けて月に一回ということもままありました。
そのあたりの苦労の話はまた別のエピソードにて。
これも詳しくは別にエピソードで書きますが、今では考えられないほど徹底した秘密主義で、簡単に学べない環境と状況だった天心流が、今はこのように公式ホームページを持ち(これもとても大変なことです)、SNSをいくつも使って動画を含む様々な情報を出して広く門人を募っているというのは、当時の井手青年や武井青年にとっては考えられないことだと言えます。
もちろんだからといって「ありがたがれ!」という気は無いのですが、現代の感覚ですと誰でもお金と暇さえあればなんでも教えてもらえるのが当たり前なのですが、そうなってから実はまだ14年ということなのです。
まあ私達にとっては、もう14年も経ったのかという驚きがありますが、ここまで来られたことに感謝し、流儀をより良い形で継承していけるように一層邁進する次第です。